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巡査の居る風景
中島敦 

― 一九二三年の一つのスケッチ ―



 甃石には凍った猫の死骸が牡蠣のようにへばりついた。その上を赤い甘栗屋の広告が風に千切れて狂いながら走った。
 町角には飲食店の屋台が五つ六つかたまって盛に白い湯気を立てて居た。赤黒くカチカチに固くなった乳房を汚れたツルマキの上から出した女が一人、その前に立って湯気を吹きながら真赤に唐辛子をかけた饂飩を啜って居た。
 署から帰ろうとして巡査の趙教英は電車を待ちながら、それをぼんやり眺めて居た。彼の前を急いで二人の浅黄服を着た支那人が、天秤棒をかついで過ぎて行った。彼等の籠の中には売れ残りの大根が白く光って居た。そろそろ潮の様に人混みが出始める頃であった。薄氷を張った様な暮方の空の下で、仏蘭西教会の鐘が寒む寒むと響き出した。
 趙教英は寒そうに鼻をすすって首を縮めると、制服の詰め襟の前を一度かけなおして電線の青白い火花を見上げた。その電車が行って了った後の線路を背の高い男が一人大股に歩いて来た。彼の署の課長であった。彼が恭しく敬礼すると、其男も鷹揚に一寸手を挙げて、又人混みの中に紛れ込んで了った。

 電車に乗ると、職業上無料の彼はいつもの様に運転手台に立って、両手をズボンのポケットにつっこんだ儘、硝子に倚りかかった。彼は電車に乗る度に屹度一人の日本人の中学生のことを思い出すのだ。………ある夏の朝だった。署に出る途中彼がいつもの運転手台に立って居ると、登校の途中の其中学生が乗り込んできたのだ。そして多分涼しい風にあたりたい為らしく、其中学生は運転手台に立って居て中に入らなかった。が、元来立つべき所ではなし、運転の邪魔にもなるというので、運転手は中学生に中に入ってくれと言ったのだ。所が彼は傲然として運転手に喰ってかかった。
「オイ、其の人を。」と、中学生は其処に立って居た巡査の彼を指さして、
「其の人を中へ入れないんなら、俺もいやだよ。」――(勿論、其の運転手も朝鮮人であるからなのだ。)――そして当惑した運転手と巡査との顔を面白そうに見比べながら其処に立続けたのであった………。彼は今も此の中学生の目付を思い出して不愉快に思った。

 電車の中は混んで居た。スケートをぶら下げた学生。鼻を真赤にした会社員風の男、買物包をかかえた奥さん。子供を尻にのせたオモニ、厚い茶色の毛皮に襟を埋めた両班達。
 しばらくすると、突然其の中から何か言い争う声が聞えて来た。乗客の視線は一斉に其の方に向けられた。見ると、腰かけて居る粗末な姿をした一人の日本の女と、その前の吊革につかまって居る白い朝鮮服をつけた学生らしい青年とが言い合って居るのであった。
 ――折角、親切に腰かけなさい、いうてやったのに。――と女は不平そうに言って居るのだ。
 ――併し、何だヨボとは。ヨボとは一体何だ、――
 ――だから、ヨボさんいうてるやないか、
 ――どっちでも同じことだ。ヨボなんて、
 ――ヨボなんていやへん。ヨボさんというたんや、
 女には何も分らないのだ。そして怪げんそうな顔付をして、他の人達の諒解を得ようとするかの様にあたりを見まわして、
 ――ヨボさん、席があいてるから、かけなさいて、親切にいうてやったのに何をおこってんのや。
 車内には所々失笑の声が起った。青年はもう諦めて了って、黙って此の無智な女を睨みつけた。教英は又しても憂鬱になって行った。 何故此の青年はあんな争論をするのだ。此の穏健な抗議者は何故自分が他人であることをそんなに光栄に思うのだ。何故自分が自分であることを恥じねばならないのだ。………彼は其の日の午後の出来事を思い出した。
 其の日の午後、府会議員の選挙演説を監視するため、彼は同じ署の高木という日本人の巡査と共に会場である或る幼稚園に出かけたのだ。何人かの内地人候補の演説についで、たった一人の朝鮮人候補の演説が初まった。商工会議所の頭もやったことのある、内地人の間にも相当人望のあるこの候補者は巧みな日本語で自分の抱負を述べ立てて居た。が、その最中に、一番前に居た聴衆の一人が立上がって「黙れ、ヨボの癖に。」と怒鳴ったのだ。二十にもならぬ位の汚ないなりをした小僧であった。高木巡査はいきなり、其奴の襟首をつかまえて場外に引ずり出して了った。と、その時此候補は一段と声を高くして叫んだのだ。
 ――私は今、頗る遺憾な言葉を聞きました。併しながら、私は私達も又光栄ある日本人であることを飽く迄信じて居るものであります。
 すると忽ち場の一隅から盛な拍手が起って来たのだ。…………
 彼は今これを思い出した。そしてその候補を此の青年と比べて見た。 それからもう一度日本という国を考えて見た。朝鮮という民族を考えて見た。自分というものも考えて見た。更に、自分の職業を、それから、今そこに帰ろうとして居る妻と一人の子供のことを思い浮べた。
 事実彼の気持は近頃「何か忘れ物をした時に人が感じる」あの何処となく落ちつかない状態にあった。果されない義務の圧迫感がいつも頭の何処かに重苦しく巣くって居るといった感じでもあった。併しその重苦しい圧力が何処から来るかということに就いては、彼はそれを尋ねようとはしなかった。いや、それが恐かったのだ。自分で自分を目覚ますことが恐ろしいのだ。自分で自分を刺激することがこわかったのだ。
 では、何故怖いのだ? 何故だ?
 その答として、彼は青白い顔をした彼の妻子を挙げる。彼が自分の職業を失ったとしたら彼等はどうなるのだ、併し「なるほど、それには違いない。だが、そればかりなのか。恐怖の原因はそれだけなのか?」と聞かれたとしたら…………。
 彼は慄然として首を縮めると、あわてて硝子越に街々の揺れる灯と、其中を泳ぐ雑沓とを眺めた。夕刊の鈴。自働車の警笛。凍った、鋪道に映る明るい灯。その上を滑る毛皮の群。暗い町角に佇んだ赤鬚の担手、牛のついて居ない肥料車、塵埃車……。

 電車は昌慶苑前で下りた。
 横町では強いアセチリンの光に肺病やみの売卜者の顔が闇から浮び上った。古本屋の店先で手をぶるぶる慄わせながら、老人が声を立てて諺文を読んで居た。
 角を一つ曲がると、突然彼は向うから来た一人の男にお辞儀をされた。彼も一つ鸚鵡返しに頭を下げてから見ると猟虎の襟の外套をつけた立派な紳士だった。
 ――一寸お尋ね致しますが。――と、その人は彼に非常に丁寧な言葉で、××氏――総督府の高官――の住居を尋ねたのだ。(××氏の所へ行くなら此の人も高官かもしれない。) 紳士にそんな丁寧な言葉をかけられたことのない彼は、一寸まごつきながらその××氏の住居を教えた。彼の返事をきくと一度丁寧に頭を下げて教えられた方に曲て行った…………。
 と、その時だった。彼はある一つの大発見をして愕然として了ったのだ。
 ――俺は、俺は今知らない中に嬉しくなって居はしなかったか。――と彼はぎょっとしながら自分に尋ねて見た。
 ――あの日本の紳士に丁寧な扱いを受けたことによって極く少しではあるけれども喜ばされて居たのだ。丁度子供が大人に少しでもまじめに相手にされると、すっかり喜んで了うように、俺も今無意識の中に嬉しがって居たのだ………………。もう先刻の青年も笑えなかった。府会議員の候補のことも云えなかった。
 ――これは俺一人の問題ではない。俺達の民族は昔からこんな性質を持つように歴史的に訓練されて来て居るんだ。
 ふと横を見ると男が道傍にしゃがんで小便をして居るのだ。彼は何げなく「立小便」することを知らない此の半島の人達の風習を考えて見た。
 ――此の一寸した習慣の中にも永遠に卑屈なるべき俺達の精神がひそんで居るのかも知れぬ。――彼はそんなことを、ぼんやり考えて見た。



 銅色の太陽は其凍った十二月の軌道を通って、震えながら赤く禿げた山々に落ちて行った。北漢山は灰色の空に青白く鋸形に凍りついて居る様に見えた。其頂上から風が光の様にとんで来て鋭く人の頬を削いだ。全く骨も砕けて了いそうに寒かった。
 毎朝、数人の行き倒れが南大門の下に見出された。彼等のある者は手を伸ばして門壁の枯れ切った鳶の蔓を浮かんだまま死んで居た。
 ある者は紫色の斑点のついた顔をあおむけて、眠そうに倒れて居た。
 漢江の氷の上では、爺さん達が氷に穴をあけて、長い煙管で煙を吹きながら寒そうに鯉をつついて居た。その岸の林からは貧しい人達が温突にくべる薪をどんどん盗って行った。薄青い山の様に氷を満載しても曳いて行く牛の顎には、涎が氷柱になって下って居た。
 雪は余り降らなかった。路はカチカチに凍り固まって了った。其路の上を色々な足が滑ったり、転んだりして歩いて行った。
 朝鮮人の船の様な木履。日本のお嬢さんのピカピカした草履。支那人の熊の足の様な毛靴。今にも転びそうな日本の書生の朴歯。磨き上げた朝鮮貴族学生の靴。元山から逃げて来た白色ロシヤ人の踵の高い赤靴。それから足も大分出かかった担手―荷物を背にのせて運搬する朝鮮人―のぼろ靴。まれにはいざりの乞食の膝から下の断たれた大腿部。その足は寒さのため、街頭で赤くはれ上って居た。
 一九二三年。冬が汚なく凍って居た。
 凡てが汚なかった。そして汚ない儘に凍りついて居た。殊にS門外の横町ではそれが甚しかった。
 支那人の阿片と蒜の匂い、朝鮮人の安煙草と唐辛子の交ったにおい、南京虫やしらみのつぶれたにおい、街上に捨てられた豚の臓腑と猫の生皮のにおい、それ等がその臭気を保ったまま、此のあたりに凍りついて了って居る様に見えた。
 でも朝方だけは流石に空気もいくらか澄んで居た。夜が明けかかって枯れたアカシヤの枝に鵲が鳴き初める頃になると、少しは清らかな呼吸も出来るのであった。いつも其の頃になると、此の横町から沢山の男がぼんやりして併し寒そうに手をこすりながら帰って行った。

 其処には色々な女が集って居た。金東蓮もそうした女の一人であった。彼女はまだ新米で友達がなかった。ただ彼女と仲がよかったのは福美という女だけだった。姓は誰も知らなかった。其の女はいつもひどく青い顔を――彼女達はみんなそうだが、殊に――して居た。 「あの人は中々えらい人なんだよ。」とその女のことを隣の婆さんが彼女達に話して居た。併し、どう、えらいのだか誰も知らなかったし、彼女も又言おうとはしなかった。そして毎日きまって四時頃になると腕をまくって注射をした。
 東蓮には、どうして、此の女にそんな金がはいるか不思議だった。そこである時、聞いて見た。すると彼女は悲しそうに笑いながら言った。
 ――お前なんか、まだ新米だから、私みたいに稼げるもんか。――



 漢江人道橋の上を、砲車がカラカラ勢よく駈けて行った。永登浦の砂の上で、龍山師団の兵士達の剣尖が青い氷を映して寒々と冬日に光った。夜毎夜毎に演習の野営が砂上に張られて、篝火が赤々と燃え盛った。

 [ノロ]を担いだ学生の一団が、街上を滑りながら走って行った。ショウ・ウィンドウの中では土偶の地下女将軍の赤い顔が重々しく笑った。半分以上出来上った朝鮮神社の鎚の音が、カラカラに乾いた空の下で高らかに響いた。

 高等普通学校の校庭では、新しく内地から赴任した校長が、おごそかに従順の徳を説いて居た。(今迄居た内地の中学校で、彼が校規の一つとして、独立自尊の精神を説いたことを、幾分くすぐったく思い浮べながら。)

 普通学校の日本歴史の時間、若い教師は幾分困惑しながら遠慮がちに征韓の役を話した。
 ――こうして、秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。――

 だが、児童達の間からはまるで何処か、ほかの国の話しででもあるような風に鈍い反響が鸚鵡がえしに響いてくるだけなのだ。
 ――そうして秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。
 ――そうして秀吉は朝鮮に攻め入ったのです。
          ×          ×          ×
 其の午後は冷たく晴れて居た。
 枯れた褐色の刺ばかりになった、アカシヤの立木が北風の中で鳴って揺れた。
 南大門駅の前には群衆が風にふかれて、立並んで居た。彼等は一様に駅の入口に眼を注いで居た。自働車は勢よくその降車口に馳けつけて出迎えの高官達を吐き出した。
 ――総督のお帰りなんだよ。
 ――総督が東京から帰られたんだよ。
 警官は、佩剣をがちゃつかせながら厳重にあたりを警戒して居た。趙教英も彼等の中にまじって人々の背後から附近を見廻わして居た。彼は風に吹きよせられた新聞紙を底の破れた靴でふみつけながら、いつかも見たことのある総督の白髪の童顔を思い浮べた。此の総督は今迄の総督達と同じ様に軍人出身ではあったけれども、今迄の誰よりも一番評判がいいようであった。鮮人達の中にも心服して居るという者が可成あるのだ。だが…………
 其時厚い黒い外套に包まれて肥満した総督の人なつこい童顔が降車ロから現われた。すると出迎えの役人達あ一斉に機械の様に頭を下げた。総督は鷹揚にそれに会釈して用意の自働車に乗りこんだ。続いて、ひどく痩せて貧弱な政務総監も次の車に乗りこんだ。そしてすぐに二台の車は、セブランス病院の角から南大門の方に滑り出した。
 すると其の時だった。突然群集の中から白衣にハンティングを着けた男が躍り出したかと思うと、矢庭にピストルを持った手を伸ばして前の車をめがけて引金を引いた。弾丸は発なかった。男はあわてて第二の引金を引いた。
 今度は轟然たる音響と共に弾丸が後の車の硝子を破壊して斜めに車内を横ぎって炸裂した。と気のついた二台の自働車は急に速力を増して、疾駆し去った。
 一瞬間、群集は呆然として、此の事件を眺めた。が、次の瞬間に、警官達は本能的に此の暴漢のまわりに馳せつけた。が、兇漢はまだピストルを持って居る。彼等は兇漢と睨みあった。兇漢は二十四五の痩形の青年だった。彼もピストルを握りしめたまま血走った眼でしばらく警官の方を睨んで居た。が突然帽子をとって甃石に力一杯たたきつけて、カラカラと自棄的に笑い出すと、いきなり手にした武器を群衆の中に抛り投げた。群集はさっと退いた。警官達も思わずギョッとして身を引いて、投げ出されたピストルを見た。………が次の刹那には彼等は既にとびかかって兇漢を押えて居た。彼は少しも抵抗しなかった。青ざめて幾分小刻みにふるえる口許に蔑すむ様な微笑を浮て彼は警官達を見た。青白い額には乱れた髪が長くたれ下って居た。眼にはもう周章と昂奮の跡が消えて、絶望した落着きと憐憫の嘲笑とが浮んで居るだけだった。
 彼の腕を捕えて居た趙教英はとてもその眼付きに堪えられなかった。その犯人の眼は明らかにものを言って居るのだ。教英は日頃感じて居る、あの圧迫感が二十倍もの重みで、自分を押しつけるのを感じた。
 捕われたものは誰だ。
 捕えたものは誰だ。



 客を引く女が四五人、白粉の禿げた顔を震わせながら、例の横町の壁に倚りかかって居た。屈折した街燈の光の中で、立てかけた土管の影が黙々と囚人達の様に並んで居た。
 ――あんた、どう? 一寸。
 ――駄目、駄目。――男はズボンのポケットに手を入れて振って見せて笑った。毛糸の頭巾を帽子の上から冠ったその青年の顔が、急ぎ足で街燈の光の中から消えた。人通りがなくなると、静まりかえった空気の中に、何処からか壁の破れる音がピンと響いて来るのだ。
          ×          ×          ×
 ――私? 何でもないさ、亭主が死んで身寄りがなくって、外に仕事がなければ仕方がないじゃないか。
 ――亭主って、何してたんだ。
 ――鐘路で毛皮を売ってたんだよ。
 淫売婦の金東蓮の部屋では、温突の油紙の上に敷いた薄い汚れた蒲団の下に足をつっこんで、色の白い職人風の男が話して居た。
 ――で、何時、死んだんだい?
 ――此の秋さ。まるで突然だった。
 ――何だ。病気か?
 ――病気でも何でもない地震さ。震災で、ポックリやられたんだよ。
 男は手を伸ばすと、酒の瓶を掴んでごくりと一ロ飲み込んだ。
 ――じゃあ、何かい。お前の亭主はその時日本に行ってたのか。
 ――ああ、夏にね。何でも少し商売の用があるって、友達と一緒に、それも、すぐ帰るって東京へ行ったんだよ。そしたら、すぐ、あれだろう。そしてそれっきり帰ってこないんだ。
 男は急にギクリとして眼をあげると彼女の顔を見た。と、暫くの沈黙の後、彼は突然鋭く云った。
 ――オイ、じゃあ、何も知らないんだな。
 ――エ? 何を。
 ――お前の亭主は屹度、………可哀そうに。

 一時間の後、東蓮は一人で薄い蒲団にくるまって暗い中で泣いて居た。彼女の眼の前には、おどおどと逃げまどって居る夫の血に塗れて火に照し出された顔がちらついた。
「あんまりしゃべっちゃいけないぜ。こわいんだよ。」と去り際に云った男の言葉も頭の何処かでかすかに思い出された。

 数時間の後、やっと夜の明けた灰色の鋪道を東蓮は狂おしく駈けまわって居た。そして通りすがりの人に呼びかけた。
 ――みんな知ってるかい? 地震の時のことを。
 彼女は大声をあげて昨晩きいた話を人々に聞かせるのであった。彼女の髪は乱れ、眼は血走り、それに此の寒さに寝衣一枚だった。通行人はその姿に呆れかえって彼女のまわりに集って来た。
 ――それでね、奴等はみんなで、それを隠して居るんだよ。ほんとに奴等は。
 到頭、巡査が来て彼女をつかまえた。
 ――オイ、静かにせんか、静かに。
 彼女はその巡査に武者振りつくと急に悲しさがこみ上げて来て、涙をポロポロ落しながら叫んだ。
 ――何だ、お前だって、同じ朝鮮人のくせに、お前だって、お前だって、………。

 彼女が刑務所に行って了ってからも、S門外の横町では、相変らず真黒な生活が腐った状態のまま続けられて行った。
 寒いというより、痛かった。身体の中で心臓の外はみんな凍死して了って居る様な気持だった。道傍には捨てられた魚の鰓が赤く崩れ、日蔭の雪溜りの上には生々しい豚の頭が噛り散らされて居た。屋内では人々は、溝から上る瓦斯の様な韮と、蒜で腐った空気を彼等の不健全な肺臓に呼吸して、辛うじて生きて居た。
 凡てが変らなかった。
 毎日四時頃になると、東蓮の友達だった福美がいつもの様に青い腕をまくって注射をした。そういう時だけ彼女は何処かに居なくなった東蓮のことをかすかに思い出すのだった。それから夜がくると、きまって、ぼろを着た若い日本人がヴァイオリンで油の切れた車輪の軋る様な音を立てて流して行った。
 明け方になると、まだ暗い中に、よく此処に来る背の高い支那人が此の横町から出て行った。
 ――おっかない星だな。――
 彼はまだ暗い空を見上げて、そう云った。それからポケットに手をつっこんで金を探して見た。
 ――ふん。おっかねえ星だな。
 も一度無意味に繰返すと、彼は又凍てついた路を、高く履の音を立てて、よろめきながら帰って行った。



 趙教英はぼんやりと、暗い旧アメリカ領事館の前を歩いて居た。彼は考えるともなく、昨夜来の事を考えて居た。
 ………昨夜家に帰ってから、又急に署長から呼び出しがあったのだ。彼は急いで署に行くと、恐る恐る署長室に這入って行った。署長は黙って彼に一枚の紙と日割の給料の袋とを渡した。ははあ、来たなと思った。四五日前、徽文高等普通学校の生徒とK中学の生徒とが大勢で喧嘩をした。その懲戒について彼は課長と少し言い争ったのだ。
 彼は黙ってその紙切れを受けとって表に出た。それから(家には帰らないで)灯の中を暫くさまよって、其の金を握ったままふらふらと、S門外の淫売屋にはいって行った。そして今晩の今になって、やっと出て来たのであった。…………
 彼は今それを遠い昔のことの様に思い出した。
 薄い霧が低く這って居た。街燈の光が街路樹の枝を通して、縞になって鋪道に落ちた。「一体、どうしろと云うのだ。」と、彼は濁った頭の奥で、何だか他人のことでも考える様に考えた。
「彼等はどうなるのだ。」妻子の青白い顔が目前にちらつき初めた。
 と、ふと彼は、彼の知って居る裏通りのある二階屋の一室のことを思い浮べた。
 其処には粗末な椅子が五六脚と、手製のテーブルが一つ置いてある。テーブルの上には蝋燭が二本立って居る。蝋燭の光はそこに集った同志達の顔をおぼろげに照し出す。赤い顔をして卓を叩くもの。髪をかきむしって考えて居るもの。黙って紙の上に鉛筆を走らせるもの。みんなが前途の希望に燃え立って居るのだ。やがて彼等の間からひそひそした相談が洩れる。「京城―上海―東京」「…………………」…………………。
 彼はぼんやりとこんな有様を画いて見た。そして自分自身の惨めさをそれに比べて見た。「どうにかしなくてはいけないのだ。とにかく。」

 気がつくと何時の間にか殖産銀行の横に来て居た。冷たい扉を閉した此の大きな石造建築の柱の蔭にはチゲの群がその担架を横に捨てたまま石ころの様に眠って居た。
「オイ、オイ。」彼は煙草臭い彼等の中に身を投ずると、その中の一人を揺り起そうとした。「………………。」何か訳の分らぬことをいいながら、其のチゲは脂だらけの眼を眠そうに一寸開けたかと思うと、直ぐに又閉じて了った。うるさそうに痩せた手を動かして、教英の手を払いのけて一つ寝がえりを打つと、白い田虫に囲まれた其の口から長い煙管がコトンと鋪道に落ちた。
「お前は、お前たちは。」突然何とも知れぬ妙な感激が彼の中に湧いて来た。彼は一つ身を慄わすと、彼等のボロの間に首をつっこんで泣き初めた。
「お前たちは、お前たちは。此の半島は………此の民族は………。」
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入力  ケンジ
校正  ケンジ
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
1999/10/20/完成版ver1.01
NO.026
底本 『中島敦全集1』/1993/筑摩書房
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。