Library
純情小曲集
萩原朔太郎 

北原白秋氏に捧ぐ



***目 次***

   
珍らしいものをかくしている人への序文 (室尾犀星)
   自 序
   出版に際して

愛憐詩篇
  夜汽車
  こころ
  女 よ
  
  旅 上
  金 魚
  静 物
  
  蟻地獄
  利根川のほとり
  浜 辺
  緑 陰
  再 会
  地 上
  花 鳥
  初夏の印象
  洋銀の皿
  月光と海月

郷土望景詩
  中学の校庭
  波宜亭
  二子山附近
  才川町
  小出新道
  新前橋駅
  大渡橋
  広瀬川
  利根の松原
  公園の椅子

郷土望景詩の後に
  I 前橋公園
  II 大渡橋
  III 新前橋駅
  IV 小出松林
  V 波宜亭
  VI 前橋中学

   跋 (萩原恭次郎)



  珍しいものをかくしてゐる人への序文

(掲載者注/室生犀星による序文であるが、氏の著作権は存続中につき割愛する)



   五月二十一日朝
犀星生   



  自 序

 やさしい純情にみちた過去の日を記念するために、このうすい葉つぱのやうな詩集を出すことにした。
「愛憐詩篇」の中の詩は、すべて私の少年時代の作であつて、始めて詩といふものをかゐたころのなつかしい思ひ出である。この頃の詩風はふしぎに典雅であつて、何となく"あやめ香水"の匂ひがする。いまの詩壇からみればよほど古風のものであらうが、その頃としては相当に珍しい"すたゐる"でもあつた。
 ともあれこの詩集を世に出すのは、改めてその鑑賞的評価を問ふためではなく、まつたく私自身への過去を追憶したゐためである。あるひとの来歴に対する"のすたるじや"とも言えるだろう。

「郷土望景詩」十篇は、比較的に最近の作である。私のながく住んでゐる田舎の小都邑(といふ)と、その附近の風物を詠じ、あわせて私自身の主観をうたひこんだ。この詩風に文語体を試みたのは、いささか心に激するところがあつて、語調の烈しきを欲したのと、一にはそれが、詠嘆的の純情詩であつたからである。ともあれこの詩篇の内容とスタイルとは、私にしては分離できない事情である。
「愛憐詩篇」と「郷土望景詩」とは、創作の年代が甚だしく隔たるために、詩の情操が根本的にちがつてゐる。(したがつてまたその音律もちがつてゐる。)しかしながら共に純情風のものであり、詠嘆的文語調の詩である故に、あはせて一冊の本にまとめた。私の一般的な詩風からみれば、むしろ変り種の詩集であらう。

 私の芸術を、とにかくにも理解してゐる人は可成(かなり)多い。私の人物と生活とを、常に知つてゐる人も多少は居る。けれども芸術と生活とを、両方から見てゐる知己はほとんど居ない。ただ二人の友人だけが、詩と生活の両方から、私に親しく往来してゐた。一人は東京の詩友室生犀星君であり、一人は郷土の詩人萩原恭次郎君である。
 この詩集は、詩集である以外に、私の過去の生活記念でもある故に、特に書物の序と跋とを、二人の知友に頼んだのである。

   西暦一九二四年春
     利根川に近き田舎の小都市にて
著 者   


  出版に際して

 昨年の春、この詩集の稿をまとめてから、まる一年たつた今日、漸く出版する運びになつた。この一年の間に、私は住み慣れた郷土を去つて、東京に移つてきたのである。そこで偶然にもこの詩集が、私の郷土の記念として、意味深く出版されることになつた。
 郷土! いま遠く郷土を望景すれば、万感胸に迫つてくる。かなしき郷土よ。人人は私に情(つれ)なくして、いつも白い眼でにらんでゐた。単に私が無職であり、もしくは変人であるといふ理由をもつて、あはれな詩人を嘲辱し、私の背後から唾(つばき)をかけた。「あすこに白痴が歩いて行く。」さう言つて人々が舌を出した。
 少年の時から、この長い時日の間、私は環境の中に忍んでゐた。さうして世と人と自然を憎み、いつさいに叛いて行かうとする、卓抜なる超俗思想と、叛逆を好む烈しい思惟とが、いつしか私の心の隅に、鼠のように巣を食つてゐた。

 いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん

 人の怒のさびしさを、今こそ私は知るのである。さうして故郷の家をのがれ、ひとり都会の陸橋を渡つて行くとき、涙がゆゑ知らず流れてきた。えんえんたる鉄路の涯へ、汽車が走つて行くのである。
 郷土! 私のなつかしい山河へ、この貧しい望景詩集を贈りたい。

   西暦一九二五年夏  東京の郊外にて
著 者   


愛憐詩篇


  夜汽車

有明のうすらあかりは
硝子戸に指のあとつめたく
ほの白みゆく山の端は
みづがねのごとくにしめやかなれども
まだ旅びとのねむりさめやらねば
つかれたる電燈のためいきばかりこちたしや。
あまたるき"にす"のにほひも
そこはかとなきはまきたばこの煙さへ
夜汽車にてあれたる舌には佗しきを
いかばかり人妻は身にひきつめて嘆くらむ。
まだ山科(やましな)は過ぎずや
空気まくらの口金をゆるめて
そつと息をぬいてみる女ごころ
ふと二人かなしさに身をすりよせ
しののめちかき汽車の窓より外をながむれば
ところもしらぬ山里に
さも白く咲きてゐたるをだまきの花。

  こころ

こころをばなににたとへん
こころはあぢさゐの花
ももいろに咲く日はあれど
うすむらさきの思ひ出ばかりはせんなくて。

こころはまた夕闇の園生(そのふ)のふきあげ
音なき音のあゆむひびきに
こころはひとつによりて悲しめども
かなしめどもあるかひなしや
ああこのこころをばなににたとへん。

こころは二人の旅びと
されど道づれのたえて物言ふことなければ
わがこころはいつもかくさびしきなり。

  女 よ

うすくれなゐにくちびるはいろどられ
粉おしろいのにほひは襟脚に白くつめたし。
女よ
そのごむのごとき乳房をもて
あまりに強くわが胸を圧するなかれ
また魚のごときゆびさきもて
あまりに狡猾にわが背中をばくすぐるなかれ
女よ
ああそのかぐはしき吐息もて
あまりにちかくわが顔をみつむるなかれ
女よ
そのたはむれをやめよ
いつもかくするゆゑに
女よ 汝はかなし。

  

桜のしたに人あまたつどひ居ぬ
なにをして遊ぶならむ。
われも桜の木の下に立ちてみたれども
わがこころはつめたくして
花びらの散りておつるにも涙こぼるるのみ。
いとほしや
いま春の日のまひるどき
あながちに悲しきものをみつめたる我にしもあらぬを。

  旅 上

ふらんすへ行きたしと思へども
ふらんすはあまりに遠し
せめては新しき背広をきて
きままなる旅にいでてみん。
汽車が山道をゆくとき
みづいろの窓によりかかりて
われひとりうれしきことをおもはむ
五月の朝のしののめ
うら若草のもえいづる心まかせに。

  金 魚

金魚のうろこは赤けれども
その目のいろのさびしさ。
さくらの花はさきてほころべども
かくばかり
なげきの淵(ふち)に身をなげすてたる我の悲しさ。

  静 物

静物のこころは怒り
そのうはべは哀しむ
この器物(うつは)の白き瞳(め)にうつる
窓ぎはのみどりはつめたし。

  

ああはや心をもつぱらにし
われならぬ人をしたひし時は過ぎゆけり
さはさりながらこの日また心悲しく
わが涙せきあへぬはいかなる恋にかあるらむ
つゆばかり人を憂しと思ふにあらねども
かくありてしきものの上に涙こぼれしをいかにすべき
ああげに今こそわが身を思ふなれ
涙は人のためならで
我のみをいとほしと思ふばかりに嘆くなり。

  蟻地獄

ありぢごくは蟻をとらへんとて
おとし穴の底にひそみかくれぬ
ありぢごくの貪欲(たんらん)の瞳(ひとみ)に
かげろふはちらりちらりと燃えてあさましや。
ほろほろと砂のくづれ落つるひびきに
ありぢごくはおどろきて隠れ家をはしりいづれば
なにかしらねどうす紅く長きものが走りて居たりき。
ありぢごくの黒い手脚に
かんかんと日の照りつける夏の日のまつぴるま
あるかなきかの虫けらの落す涙は
草の葉のうへに光りて消えゆけり。
あとかたもなく消えゆけり。

  利根川のほとり

きのふまた身を投げんと思ひて
利根川のほとりをさまよひしが
木の流れはやくして
わがなげきせきとむるすべもなければ
おめおめと生きながらへて
今日もまた河原に来り石投げてあそびくらしつ。
きのふけふ
ある甲斐もなきわが身をばかくばかりいとしと思ふうれしさ
たれかは殺すとするものぞ
抱きしめて抱きしめてこそ泣くべかりけれ。

  浜 辺

若ければその瞳(ひとみ)も悲しげに
ひとりはなれて砂丘を降りてゆく
傾斜をすべるわが足の指に
くづれし砂はしんしんと落ちきたる。
なにゆゑの若さぞや
この身の影に咲きいづる時無草(ときなしぐさ)もうちふるへ
若き日の嘆きは貝殻もてすくふよしもなし。
ひるすぎて空はさあをにすみわたり
海はなみだにしめりたり
しめりたる浪のうちかへす
かの遠き渚に光るはなにの魚ならむ。
若ければひとり浜辺にうち出でて
音(ね)もたてず洋紙を切りてもてあそぶ
このやるせなき日のたはむれに
かもめどり涯なき地平をすぎ行けり。

  緑 陰

朝の冷し肉は皿につめたく
"せりい"はさかづきのふちにちちと鳴けり
夏ふかき"えにしだ"の葉影にかくれ
あづまやの藤椅子(といす)によりて二人なにをかたらむ。
さんさんとふきあげの水はこぼれちり
さふらんは追風(つゐふう)にしてにほひなじみぬ。
よきひとの側(かた)へにありてなにをかたらむ
すずろにもわれは思ふ"ゑねちや"の"かあにばる"を
かくもやさしき君がひとみに
海こえて燕雀(えんじやく)のかげもうつらでやは。
もとより我等のかたらひは
いとうすきびいどろの玉をなづるがごとし
この白き舗石(しきいし)をぬらしつつ
みどり葉のそよげる影をみつめゐれば
君やわれや
さびしくもふたりの涙はながれ出でにけり。

  再 会

皿にはをどる肉さかな
春夏すぎて
きみが手に銀の"ふおうく"はおもからむ。
ああ秋ふかみ
なめいしにこほろぎ鳴き
ええてるは玻璃(はり)をやぶれど
再会のくちづけかたく凍りて
ふんすゐはみ空のすみにかすかなり。
みよあめつちにみづがねながれ
しめやかに皿はすべりて
み手にやさしく腕輪ははづされしが
真珠ちりこぼれ
ともしび風にぬれて
このにほふ舗石(しきいし)はしろがねのうれひにめざめむ。

  地 上

地上にありて
愛するものの伸長する日なり。
かの深空にあるも
しづかに解けてなごみ
燐光は樹上にかすかなり。
いま遥かなる傾斜にもたれ
愛物どもの上にしも
わが輝やく手を伸べなんとす
うち見れば低き地上につらなり
はてしなく耕地ぞひるがへる。
そこはかと愛するものは伸長し
ばんぶつは一所にあつまりて
わが指さすところを凝視せり。
あはれかかる日のありさまをも
太陽は高き真空にありておだやかに観望す。

  花 鳥

花鳥(はなとり)の日はきたり
日はめぐりゆき
都に木の芽ついばめり。
わが心のみ光りいで
しづかに水脈(みを)をかきわけて
いまぞ岸辺に魚を釣る。
川浪にふかく手をひたし
そのうるほひをもてしたしめば
かくもやさしくいだかれて
少女子どもはあるものか。
ああうらうらともえいでて
都にわれのかしまだつ
遠見にうかぶ花鳥のけしきさへ。

  初夏の印象

昆虫の血のながれしみ
ものみな精液をつくすにより
この地上はあかるくして
女の白き指よりして
金貨はわが手にすべり落つ。
時しも五月のはじめつかた。
幼樹は街路に泳ぎいで
ぴよぴよと芽生は萌えづるぞ。
みよ風景はいみじくながれきたり
青空にくつきりと浮びあがりて
ひとびとのかげをしんにあきらかに映像す。

  洋銀の皿

しげる草むらをたづねつつ
なにをほしさに呼ばへるわれぞ
ゆくゆく葉うらにささくれて
指も真紅にぬれぬれぬ。
なほもひねもすはしりゆく
草むらふかく忘れつる
洋銀の皿をたづね行く。
わが哀しみにくるめける
ももいろうすき日のしたに
白く光りて涙ぐむ
洋銀の皿をたづねゆく
草むら深く忘れつる
洋銀の皿はいづこにありや。

  月光と海月(くらげ)

月光の中を泳ぎいで
むらがるくらげを捉へんとす
手はからだをはなれてのびゆき
しきりに遠きにさしのべらる
もぐさにまつはり
月光の木にひたりて
わが身は玻璃のたぐひとなりはてしか
つめたくして透きとほるもの流れてやまざるに
たましひは凍えんとし
ふかみにしづみ
溺るるごとくなりて祈りあぐ。

かしこにここにむらがり
さ青にふるへつつ
くらげは月光のなかを泳ぎいづ。


郷土望景詩


  中学の校庭

われの中学にありたる日は
艶(なま)めく情熱になやみたり
いかりて書物をなげすて
ひとり校庭の草に寝ころび居しが
なにものの哀傷ぞ
はるかに青きを飛びさり
天日(てんじつ)直射して熱く帽子に照りぬ。

  波宜亭

少年の日は物に感ぜしや
われは波宜亭(はぎてい)の二階によりて
かなしき情歓の思ひにしづめり。
その亭の庭にも草木(さうもく)茂み
風ふき渡りてばうばうたれども
かのふるき待たれびとありやなしや。
いにしへの日には鉛筆もて
欄干(おばしま)にさへ記せし名なり。

  二子山附近

われの悔恨は酢えたり
さびしく蒲公英(たんぽぽ)の茎を噛まんや。
ひとり畝道(あぜみち)をあるき
つかれて野中の丘に坐すれば
なにごとの眺望かゆいて消えざるなし。
たちまち遠景を汽車のはしりて
われの心境は動擾せり。

  才川町
       ――十二月下旬――

空に光つた山脈(やまなみ)
それに白く雪風
このごろは道も悪く
道も雪解けにぬかつてゐる。
わたしの暗い故郷の都会
ならべる町家の家並のうへに
かの火見櫓をのぞめるごとく
はや松飾りせる軒をこえて
才川町こえて赤城をみる。
この北に向へる場末の窓々
そは黒く煤にとざせよ
日はや霜にくれて
荷車巷路に多く通る。

  小出新道

ここに道路の新開せるは
直(ちょく)として市街に通ずるならん。
われこの新道の交路に立てど
さびしき四方(よも)の地平をきはめず
暗鬱なる日かな
天日家並の軒に低くして
林の雑木まばらに伐られたり。
いかんぞ いかんぞ思惟をかへさん
われの叛(そむ)きて行かざる道に
新しき樹木みな伐られたり。

  新前橋駅

野に新しき停車場は建てられたり
便所の扉(とびら)風にふかれ
ペンキの匂ひ草いきれの中に強しや。
烈々たる日かな
われこの停車場に来りて口の渇きにたへず
いづこに氷を喰(は)まむとして売る店を見ず
ばうばうたる麦の遠きに連なりながれたり。
いかなればわれの望めるものはあらざるか
憂愁の暦は酢え
心はげしき苦痛にたへずして旅に出でんとす。
ああこの古びたる鞄をさげてよろめけども
われは瘠犬のごとくして憫れむ人もあらじや。
いま日は構外の野景に高く
農夫らの鋤に蒲公英(たんぽぽ)の茎は刈られ倒されたり。
われひとり寂しき歩廊(ほうむ)の上に立てば
ああはるかなる所よりして
かの海のごとく轟ろき 感情の軋(きし)りつつ来るを知れり。

  大渡橋

ここに長き橋の架したるは
かのさびしき総社の村より 直(ちょく)として前橋の町に通ずるならん。
われここを渡りて荒寥たる情緒の過ぐるを知れり
往くものは荷物を積み車に馬を曳きたり
あわただしき自転車かな
われこの長き橋を渡るときに
薄暮の飢ゑたる感情は苦しくせり。

ああ故郷にありてゆかず
塩のごとくにしみる憂患の痛みをつくせり
すでに孤独の中に老いんとす
いかなれば今日の烈しき痛恨の怒りを語らん
いまわがまづしき書物を破り
過ぎゆく利根川の水にいつさいのものを捨てんとす。
われは狼のごとく飢ゑたり
しきりに欄干(らんかん)にすがりて歯を噛めども
せんかたなしや、涙のごときもの溢れ出で
頬(ほ)につたひ流れてやまず
ああ我れはもと卑陋(ひろう)なり。
往くものは荷物を積みて馬を曳き
このすべて寒き日の 平野の空は暮れんとす。

  広瀬川

広瀬川白く流れたり
時さればみな幻想は消えゆかん。
われの生涯(らいふ)を釣らんとして
過去の日川辺に糸をたれしが
ああかの幸福は遠きにすぎさり
ちひさき魚は眼にもとまらず。

  利根の松原

日曜日の昼
わが愉快なる諧謔(かいぎゃく)は草にあふれたり。
芽はまだ萌えざれども
少年の情緒は赤く木の間を焚(や)き
友等みな異性のあたたかき腕をおもへるなり。
ああこの追憶の古き林にきて
ひとり蒼天の高きに眺め入らんとす
いづこぞ憂愁ににたるものきて
ひそかにわれの背中を触れゆく日かな。
いま風景は秋晩(おそ)くすでに枯れたり
われは焼石を口にあてて
しきりにこの熱する 唾(つばき)のごときものをのまんとす。

  公園の椅子

人気なき公園の椅子にもたれて
われの思ふことはけふもまた烈しきなり。
いかなれば故郷のひとのわれに辛(つら)く
かなしき"すもも"の種を噛まむとするぞ。
遠き越後の山に雪の光りて
麦もまたひとの怒りにふるへをののくか。
われを嘲けりわらふ声は野山にみち
苦しみの叫びは心臓を破裂せり。
かくばかり
つれなきものへの執着をされ。
ああ生れたる故郷の土を踏み去れよ。
われは指にするどく研げるナイフをもち
葉桜のころ
さびしき椅子に「復讐」の文字を刻みたり。


郷土望景詩の後に


  I 前橋公園

 前橋公園は、早く室生犀星の詩によりて世に知らる。利根川の河原に望みて、堤防に桜を多く植ゑたり。常には散策する人もなく、さびしき芝生の日だまりに、紙屑など散らばり居るのみ。所々に悲しげなるベンチを据ゑたり。我れ故郷にある時、ふところ手して此所(ここ)に来り、いつも人気なき椅子にもたれて、鴉(からす)の如く座り居るを常とせり。

  II 大渡橋

 大渡橋(おおわたりばし)は前橋の北部、利根川の上流に架したり。鉄橋にして長さ半哩(まいる)にもわたるべし。前橋より橋を渡りて、群馬郡のさびしき村落に出づ。目をやればその尽くる果を知らず。冬の日空に輝やきて、無限にかなしき橋なり。

  III 新前橋駅

 朝、東京を出でて渋川に行く人は、昼の十二時頃、新前橋の駅を過ぐべし。畠の中に建ちて、そのシグナルも風に吹かれ、荒寥たる田舎の小駅なり。

  IV 小出松林

 小出の林は前橋の北部、赤城山の遠き麓にあり。我れ少年の時より、学校を厭ひて林を好み、常に一人行きて瞑想に耽りたる所なりしが、今その林皆伐られ、楢、樫、撫(ぶな)の類、むざんに白日の下に倒されたり。新しき道路ここに敷かれ、直として利根川の岸に通ずる如きも、我れその遠き行方を知らず。

  V 波宜亭

 波宜亭(はぎてい)、萩亭ともいふ。先年まで前橋公園前にありき。庭に秋草茂り、軒傾きて古雅に床しき旗亭なりしが、今はいづこへ行きしか、跡方さへもなし。

  VI 前橋中学

 利根川の岸辺に建ちて、その教室の窓々より、浅間の遠き噴煙を望むべし。昔は校庭に夏草茂り、四つ葉(くろばあ)のいちめんに生えたれども、今は野球の練習はげしく、庭みな白く固みて炎天に輝やけり。ほけり如き怠惰の生徒ら、今も猶そこにありやなしや。


  

 萩原朔太郎! 少年時からの懐かしさで、今では兄のやうに思へる。氏と語る時には、常に寡黙な軽い憂鬱さを知る。秀でた人のもつ善良の味だ。私は實にその偏奇な高潔さが好きだ。卓を挟んで拳闘家のやうに語り合ふ事は、極めて尠(すくな)い。が、語る!
 怒り、淋しい頽廃の怒り、閃く、自棄的な時、どこにも快活な、何物へも得意さと云ふものが現はれない日、病的な程堪へ難い日がある。また晴天の日、松林を走るやうな愉快な疳(かん)の高い日の氏は、腸の虫まで笑ひこける、押へつけられないやうな気がする。其程、軽快な警句が躍り上る。
 然し、一体に重い影の中に、氏の姿はある。
 四月、自分が見すぼらしい下宿の二階を間借りしてゐる氏を訪ねて、今度の「郷土望景詩集」の原稿を拝見した時、その多くが余りにも、激越敵な忍耐強い人のよくする怒りが、綴られてゐるのに驚いた。其時、氏と散歩して来た、非感覚的な桜の花が咲きみだれてゐた前橋公園や、かつて「雲雀の巣」に歌はれた堤防附近や、その他抒情的風景の多くが、氏にとつて内心の悪舌を吐きかける所となつてゐるのに驚いたのであつた。内心の悪舌は即ち内心の泣訴である。「友よ、君が生活を匿(かく)して、その魂を示せ!」ヰ゛クトル・ユウゴウの言葉そのものが、その中にひそんでゐる。
 氏が、郷土に於ける生活は、さなきだに因習的な莫迦らしい制度や、臆面もない抑圧的なものが、自然と外から内へまで、のさばり込んだらしい。それへの怒り! 即ち生活的の苦'は、芸術的の怒'り'となつて現はれたのだ。自分はこの堪へ難いやうな作品を見た時に、芸術的であると云ふ言葉をもつて、之等の詩に対する事を排(しりぞ)けなくてはならぬと思つた。何故なれば、余りにも、芸術のもつムード以外の生活的悲鳴が、之等を領してゐたからである。
「月に吠える」や「青猫」によつて氏を洞見してゐた読者は、如何にこの詩集によつて驚異するであらう。以上の詩集によつて知らるる氏は、強い厭世思想者であり、神秘的な詩人である。この眼をつぶつた、歯を食ひしばつた怒りを知らない。この現実的な苦悶を知らない。
 最近の氏には、今までにない内攻する苦悶が見える。田舎に住む事以外に、多様の堪へ難い行き詰りがあるらしい。殊に何物かの甚だしい行き詰まりがあるらしい。この詩集はそれへの一つの暗示であるやうに思ふ。
 ともあれ、この詩集に於いては、孤独に生きねばゐられなかつた氏が、孤独に生きる事の苦しさを告白した、悲痛なる一種の記録である。今、自分が氏に就いて語らうとするのは早計である。けれ共、氏に就いて語らうとする者は、この詩集を繙(ひもと)いて、如何に如実なる氏を知る事が出来るであらう。生活者としての氏を識(し)る者は、芸術家としての氏を敬する以上に、悩ましいまでの親和を感ずるであらう。
 尠くもこの詩集によつて、氏に一転化の来たされんとしつつあるは、誤らない事実だ。昨日の高踏的詩風に、この現実的なバックの浸潤を加へる事によつて、氏の芸術境は一層の深刻を加へる事であらう。私は此等の詩に接して、更に更に何等のあます所なく、どんなに愉快な喜びの念にうたれるか知れない。と共に、蓬洒のやうな生活の中に、隠忍的の苦を送つてゐられる氏を、強い感激的な念にうたれざるを得ない。
 以上を跋文の形として、日頃の喜びと、懐しさを、更に更に高く捧げたく思ふ私である事は、世の多くの読者とまたすこしも変らないのである。

   大正13年初秋
萩原恭次郎   

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入力  aki
校正  nani
公開サイト 書籍デジタル化委員会
http://www.wao.or.jp/naniuji/
1999/06/21/完成版ver1.01
NO.017
底本 『詩集/月に吠える・青猫・純情小曲集』講談社文庫/1971/講談社
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(註)
コード外の文字は[ ]で示し、別字またはカナで表記。
ウムラウト、アクサンなどは省略。