習い事の基本について考える

習い事の基本について考える

 どんな習い事にも共通して言えることだが、これが身につくまでには、同じ動作を 繰り返す必要がある。意識的に行っている動作が次第に自動化され、やがては意識を 通さずに行えるようになる。                           なぜ繰り返しが必要なのか? それを推測すれば、身につけようとしていることが 果たして本当に必要な能力なのかどうか? 一つの試練の場に立たされる。これは、 あるいは人間が身につけられる能力の数に限りがあるのか?            『頭ではなく体で覚える』と俗に言われる。確かに考える部分は使われないものの、 反射的な司令を出すのは、やはり頭が使われる。一つの認識に基づいた一つの動作が 定着するが、この認識する部分は頭である。                   『あまりものを考えると真空管が爆発して馬鹿になるぞ』とよく言われた俺様だが、 俺様に限らず、人間の記憶能力は、実は、それほど多くはない。脳は、無駄な記憶を 排除するメカニズムで構成される。                        俺様は、JIS配列と親指シフトの両方のキーボードをかな入力で、キーボードを 見ずに打てる。然し、白紙のキーボードを見てそこに該当する文字を書き込むことは 出来ない。                                   一例として、『パーソナルコンピュータ利用技術認定試験』がある。4級の問題の 中には、これを書き込ませる問題がある。これは、タイピングをマスターするには、 知識としてキーの配列を記憶する必要があるとの誤解を生む。            実際に、タイピングが出来る人間にも、この問題はまともに答えられない。実際に 打つ文字を想定して現実に指の動きを観察して答えるしかない。実際に、意識せずに 文字を打てるが、知識として記憶されてはいない。                 つまり、文字を打つと言う一方通行の習慣が定着する。視覚で捉えたキーボードが どの文字に該当するかは解らないのである。練習の段階でもキーの配列を知識として 覚える必要はない。                              『ア』を打つ為には、それが何処にあるのかキーボードを見ずに、配列を書いた紙を 見る。両方の指の絶対的なホームポジションを起点にして、どの方向に、どの指を、 どれだけ移動するか? これを感覚で覚える。                   頭で覚える知識の代りに、指自体に覚えさせるのである。目に頼らない指の動きを 定着させる必要がある。慣れれば、打とうとする文字を意識するだけで、指が自然に 動いてくれる。                                 目でキーボードを見て打つと、指は目に頼って、その記憶を頭の知識に引き渡して ズルをする。つまり指は目に頼って動くが、目がなければ動くことが出来なくなる。 キーボードを見てはいけない理由がここにある。                  然し、別に頻繁に目を動かすことを苦にしなければ、必ずしも悪いとは言えない。 そのように絶えず視線を移動させることが、あるいは、目の運動になっていいのかも 知れないとさえ思う。                              但し、画面に視線を固定させることから目を悪くするならば、キーを打ちながら、 若い女の姿を追うことは可能である。その点でキーボードを見ずに打つメリットは、 やはり高いのである。                              無味乾燥としたキーボードを見るよりは、外を歩く美しい女性の姿を見ていた方が 遥かに有益である筈である。『何処を見ているんだ!』文句を言われようが、仕事が 進んでいれば、謂れのない忠告である。                      目の有効利用の点からも、タイピングをしながらも、目は、それとは別のところで 使えるメリットは大きいのである。その点では、入力方法が、例えローマ字入力でも これが非難される理由はない。                          ただ、タイピングの絶対的な基本になる筈の、基本的な理念があやふやなままに、 さしたる絶対的な根拠もなく、ローマ字入力が教えられている現実に異議を唱えたい のである。                                   最近では、『あ』と言いながら『A』を打つ−−などと、道を知らずに道を説く、 言語道断・亡国的タイピングの教本まである。別段、購入して読んだ訳ではないが、 即刻、回収絶版に値する亡国的悪書である。                    俺様の電子手帳には、この出版社と書名、著者が記入されているが、他人の商売を 邪魔するつもりもない。必ずしも本当に正しいことが世に広く広まるものでもない。 全ての人間が真理を理解し得ぬ以上、これは避けられぬ。              果たして、このようにして日本語が入力出来るようになったとしても、その後に、 アルファベットはどのように覚えるのか? 多分、ローマ字入力だから自然に覚えて いるものだとしているのかも知れぬ。                       然し、この方法では、Aと言うキーが仮名の『あ』とアルファベット文字の『A』 両方の認識で、同じキーが打たれる。結局は、俺様流のカタカナの『ア』に『あ』が 対応することを覚えるのと同じなのである。                    扱う文字がアルファベット26文字だからとて、五十音は、やはり50の音で記憶 されている厳然たる事実がある。これと別にアルファベットそのものを覚えている。 それだけ記憶に負担を掛けているのに気がつかない。                26文字だけで済ませようと思うならば、漢字変換の直前まで、アルファベットが 表示されていなければならないのだが、ローマ字入力における日本語入力システムは そのようになってはいないのだ。                        『A』を打った途端に、これが『あ』に変わってしまう。『A』の痕跡は全くない。 ならば最初からカナモードで『あ』そのものを打った方がより効率的であり、実際に 動きの元になる反射がしっかり文字で定着する。                  俺様がタイピングをする場合に、カタカナ・ひらがな・アルファベット・数字の、 自然に備わったそれぞれの違いと、それが識別できる、日本人としての自然な能力を フルに活用している。                              指が自然に反応する動きは、明確に識別できる対象があって成立する。それが音で あれば、カタカナとひらがな、更にはローマ字の区別は使われない。ただ一つの音に 反応するだけで、適応能力が低くなる。                      逆に、音に頼って覚えなけばならないのが、楽器の演奏だと思える。俺様は、少し ギターを独習で習い覚えた記憶があるのだが、譜面を見ずに弾ける曲はあまりない。 『禁じられた遊び』と『アルハンブラの想い出』だけ…。              何故、そうなのか? 実はギターを習うのと同時に譜面の読み方を覚える。次第に 譜面を見て指を動かす習慣が定着してしまう。本当は、正確な調弦をした上で、音を 覚えて音に反応した指の動きを定着させる必要がある。               音楽教育の現場でも、恐らくこれが行われていない。一つの音を聞いた時、また、 それをイメージした時に自然に指が動かなくてはいけない。然し、俺様の独習では、 これが譜面に対応した動きになってしまった。                   ギターは、俺様がパソコンに関心を持つ前までの趣味で、パソコンに魅入られて、 次第に練習する時間もなくなっている…。この真理に目覚めた今、新たに、ギターの 指の動きが音に反応するように練習してみたい…。                 いつまでパソコンに関わりを持つのか? 今は主に文書作成が主体の使い方だが、 書くことがなくなれば、自然にパソコンとの関わりも薄らいで行く? 時間が空けば ギターの練習も新たな課題でやってみたい。          ** 悪魔 **
 
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