夕闇に幻の如く老婆あり

夕闇に幻の如く老婆あり



 一体…,あれは….一瞬,それは幻かと思った.夕闇の中で,背景が透けて見える
錯覚を起こさせるほど,存在感のないものが,車の前をゆっくりと,横切っていた.
俺様は自分の目を疑う….                          

 車を止めて様子を見ると,それは,まさしく生きた老婆だった.左右の確認なんて
どうでもいい.天下の往来,何の遠慮が要るものか.アタシャ渡りたい時に渡るっ!
そんな様子である.まるで,ありゃ幽霊である.                

 年齢に関わりなく,生命力が弱くなった人間と言うのは,周囲に,目立った印象を
与えない.存在感がなくなってしまう.こういう人間は,案外,車の死角に入って,
モロに轢かれてしまう?                           

 例えば,人が死ぬ形態は様々である.特定の人間の責任とされる形態には,他人の
過失での死亡,恨みを抱かれて殺される,突然の事故で死ぬ等は,その時,もし何が
どうであったら,或いは死なずに済んだと言う話にもなる.           

 俺様の歳にもなると,それでも結構,知り合いが死んでいる.結婚式の集合写真の
中のかなりの人間が,既にこの世のものではない.その死因も,轢き逃げ,自殺など
結構,派手な形態もある.                          

 死んだその時は,かなり衝撃的なのだが,時間経過して顧みると,結局,その時に
死ぬべき運命だったのではないか? そのように思えて来る.その当時は,まだまだ
これからだと言う時に…とは思うのだが….                  

 基本的に,人間の生死は,人間が握っている訳ではなく,人それぞれ,宿命と言う
プログラムがあって,それに従って死んで行くように思える.ただ,その引導を誰が
渡すのか? それが問題なのである.                     

 自発的な病気で死ぬか,それとも事故と言う形態で,他人の宿命との連動の結果で
死ぬかの違いがあるばかりである.特定の環境の中で,特定の考えを抱けば,生じる
結果が必然的に一定である形態もある.                    

 様々な状況の中で,起きる出来事をどのように捉えて,どのように反応するか? 
それに依って,その後に辿る宿命のルーチンが違って来る.飛び出し事故にあって,
相手が一方的に悪いとするのか,自分がぼんやりしていたと思うか?       

 少なくとも自分の側にあった不注意に気がつけば,それを教訓にして,同じ形態の
ミスを未然に防止出来る可能性が生まれる.相手だけが一方的に悪いとする限りは,
同じ事故は,何度でも起きる.                        

 他人と言う,外界で起きる一方的なミスは永遠に修正出来ないが,自分の過失は,
自分で注意すれば,幾らでも未然に防止出来るからである.不注意な人間が多いのは
世の常である.自分の注意力の高揚で防ぐしかない.              

 俺様も,事故体験がなかったら,その後に,きっと大きな事故をやっていた必然を
感じる.今までの俺様だったら,今の場合,間違いなく相手を轢いていた…,そんな
状況によく遭遇した.これからもあるかも知れぬ.               

 どんな場合にも,死神は直接,姿を見せない.事故の責任は,あくまでも人間側に
帰属させられる.また,死神も,直接自分では手を下せない.何処かで,人間の手を
借りてノルマを果たすのだ.                         

 自分の運転が,死神と仲良くしている形態ではないかどうか,よく反省することで
自分自身の宿命も違った形態で進んで行く.道端の石ころにつまずいて転ぶような,
つまらぬ事故で,人生の寄り道は避けたい.                  

 様々に違った常識が交錯して,渾然一体となっている世界である.様々な事故は,
偶発的に起こるようでありながら,常識の違いを認識出来なければ,必然的な結果で
起こってしまう.                              

 人間の生死は,基本的に本人のプログラムに従った結果である真理があるにしても
そのプログラムに加担して,相手をあの世に導いたことは,言わば,相手と協力して
殺害行為に手を貸したことになる.                      

 それを考えれば,自殺も立派な殺人なのである.ただ,被害者と加害者が同じで,
裁けないだけなのである.傍で見て危ない運転だと思う状況は,日常茶飯事である.
彼らは『加害者』として登録されたキャラクターでもある.           

 後はそれを,いつ死神が使うか,タイミングの問題が残されているばかりである.
俺様は,事故体験から,より安全に配慮するようになった.それは,自分の不注意な
部分を明らかにする効果があった.                      

 それが習慣になると,危険を体が自然に察知するようにもなる.今朝,車で家から
出たばかりの時,何故,俺様は,こんなにゆっくり走っているのか? 突然,そんな
疑問を抱いた時,青信号の交差点に差しかかった.               

 突然,信号待ちの学生の間から,二人乗りの自転車かノンストップ,猛スピードで
俺様の車の前に飛び出した….強くブレーキは踏んだが,それ程の危険もなかった.
もし,俺様が普段のスピードであったら….                  

 ホッとした瞬間に,信号が黄色に変わり,そこで信号一回待ち….次の青信号で,
発進しようとした正にその瞬間,俺様の車の右側を走ってきた自転車が,追い抜いて
突然,車の前で左折をした.                         

 ブレーキを踏んでやり過ごして,再び発進しようとした瞬間,同じように自転車が
もう一台横切った….全く…,二重三重に罠が仕掛けられた雰囲気を感じる.安全に
配慮する意識が危険を予知した可能性もある?                 

 短いようでも,長い人生である.車の運転も,単純にドライブを楽しむ感覚だけで
過ごせる訳ではなく,集中的に事故の危険に晒される時期がある.これを書くのも,
俺様が自分に言い聞かせる手段としている意味がある.             

 交通量も少なく,皆さん,おとなしく信号待ちをしている快適に晴れた朝である.
快調に飛ばしたい雰囲気でもあった中で,浮かれた二人乗りの自転車の飛び出し….
正に魔の一瞬であった.死神は悔しがったことだろう….** 悪魔 **    

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