交通弱者:車=生徒:教師

交通弱者:車=生徒:教師



 例えば,事故に遭遇した子供は,軽傷の場合,自分が親とか先生に叱られることを
恐れる.俺様が体験した場合もそうだったが,知り合いの子供の例でも,擦りむいた
傷を追及されて,初めて事故に遭ったと話した.                

 車側は,子供のそんな弱みに付け込んだり脅しをかけて届け出もせず逃げてしまう
ケースが結構多いのである.子供に口やかましく注意していることが逆効果になって
自分から隠そうとする.                           

 いかなる場合でも,事故に遭ったら必ず届け出をすることを教える教育が必要でも
ある.『あれだけ注意をしていたのに,何でお前は…』等の言動は何の意味もない.
起きてしまったら,子供を叱ることは止めるべきである.            

 日頃から一歩踏み込んで,事故に遭遇した場合に取るべき行動を,よく教えておく
ことが必要である.一見,軽傷に見えても,何が起きているか解らぬ.周囲の大人に
協力を求めて,必ず病院へ行く手段を講じる必要がある.            

 然し,他人に無関心な大人も多い時代である.昼間は,親も働いて連絡が付かない
ケースもある位だったり….果して学校は,こんな場合に緊急連絡の場となる体制が
出来ているのかどうか?                           

 例えば,飛び出しと言う現象は,多分,未来永劫なくならないだろう.人間には,
『一時停止』の本能はない.無教育なまま自転車に乗るようになれば,安全確認など
眼中になく,そのまゝ通りに出てしまう.                   

 子供も幾ら学校で交通安全教育を受けてはいても,遊びに夢中になってしまえば,
後天的に学習した部分など消し飛んで,本能的な行動に走ってしまう.交通事情が,
先天的な適応能力には組み込まれていない….                 

 自分が通る幅は,常に安全なのだと無意識の思い込みがある.いい大人が路地から
一時停止もせず,左折をするケースは日常的な現象ですらある.運転する側の論理で
当然一時停止はするだろうとの思い込みは危険である.             

 運転免許を取得せず歳を取ってしまうと,未だに『天下の往来』なる旧態依然たる
江戸時代の感覚で生活を続けてしまう.現代の教育を受けた子供よりも始末が悪い.
自分は何をしても許されると思っている.                   

 既に,外国では,『車優先の社会』になっている国もあり,轢かれた人間に責任が
あるとされてしまうと言う.日本は建前の上では,未だ『弱者優先の社会』である.
この場合の弱者とは,一体,誰を指すのであろうか?              

 表面的には自転車とか歩行者なのだが,現実的に定義をすれば,現代の交通事情を
飲み込めない頭の弱い自転車とか歩行者とすべきである.例え信号を無視しようが,
飛び出そうが,彼らを轢いてはいけない社会なのだ.              

 運転者側が,歩行者や自転車に向かって,信号無視だとか一時停止しなかったとは
言えない社会なのである.車を運転する者は,飛び出しや信号無視があるものだと,
覚悟をして,それを避けられる運転をしなければいけない.           

 バカ殿の気まぐれを,徹底して保護しなければならぬのが弱者優先の精神である.
生活の中に国防思想のかけらもない日本人である.その根本的な部分から自分の身を
護る知恵を失っている.                           

 横断中に轢かれる人や自転車が多い.自分の身に迫る簡単な危険に気づかぬ人間が
こうして簡単に命を落としてゆく.自分の行動範囲に迫る危険に注意力が及ばない.
五感が危険を認識出来ないドジを踏む.                    

 身に迫る危険も,それを積極的に感知する方向へ意識を働かせる努力がないと認識
出来ない仕組みである.安全な社会に甘え切った習慣が,危機を認識出来ない人間を
産み出している.規則が自分を護ってくれる錯覚もある.            

『何も悪いことをしていないのに…』などと,幼い言葉を平気で口にする.こういう
背景には,真っ当な社会生活をしていれば,災いは起きないとする,変な思い込みが
先行している.                               

 車に轢かれる人間の中には,結構,走って来る車を認識している.然し,渡れると
思ったとするのである.例えば,40キロで走行して来る車と,80キロで走行して
来る車の区別は,一瞬見ただでは解らない.                  

 俺様は,歩行者の立場になる場合が多い.道路の横断は,基本的に車が見えたら,
諦める.青信号とて,走って来る車が止まることを確認する.自分の身を守る術は,
自分自身の注意力である.                          

 信号待ちの時は,車道に前輪を出して,平然と待機する自転車の脇には寄らない.
これが撥ね飛ばされたら巻き添えを食う恐れがある.赤信号で渡り来る歩行者には,
これを避けようと歩道に飛び込んで来る車に注意するとか….          

 歩行者の俺様は,赤信号では絶対に渡らない.大勢の人間がゾロゾロ歩きだしても
俺様は踏み止まる….何故か? 渡っている人間が本当に実在するか否か? これは
確かめようがない.                             

 死神が自分を誘おうと,罠を仕掛けているかも知れない.一緒に渡り始めた途端に
突然,周囲の人間の姿が消えて,自分だけが見えなかった車に轢かれる.車にさえ,
十分に気をつければ赤信号でも….等と思ってはいけない.           

 そういう習慣が身につくと,意識レベルが低下している時に,当然見える筈の車が
全く認識出来ずに,突然,撥ねられることもある.自分の意識状態は,現在進行形の
形では認識できないのだ.                          

 車に轢かれる人間の全てが,危ないと思って渡って轢かれる訳ではない.安全だと
信じて渡って事故に遭っている.自分の判断力の大半は間違っている.常に,正しい
判断に従って行動していれば,そんな人生は歩んでおるまい?          

 最近の傾向として,『個人の尊厳』なる変な権利意識が浸透して,幼いクソガキに
まで人権を認めなければいけないなどと主張をする学者までおる.未熟なガキに変な
権利意識を持たせるのは間違いである.                    

 不合理が常識の世の中である.幼い頭で考えたことを,そのまま世の中に通しては
現実的な教育が出来なくなる.教育の基本は,環境への適応能力を身につけるさせる
ことにあり,権利意識を浸透させることではない.               

 現実の世界は,極めて不合理で未熟な論理で動いている.純粋な論理だけで問題が
解決される世界ではない.自分が法規を守っているとする単純な論理だけで,安全は
確保出来ない現実を認識させる必要がある.                  

 論理的な正しさだけで世の中は動いては行かない.崇高なる真理を究めた人間程,
この世では孤立する宿命である.前人未踏の世界に到達したところで,そこで一体,
だれが歓迎してくれると言うのか?                      

 オリンピックで世界記録を出したところで,騒いでくれるのは,競技とは,まるで
無関係な愚かな庶民ドモに過ぎない.更なる記録更新を求めて戦う現場には,一体,
誰がいるのか?                               

 例えば,大衆に世界記録を超えさせようなどは無謀の極みである.自分が到達した
世界は,自分自身だけのもので,他人と共有出来る性質のものではない.他人と違う
世界をみいだした者は孤立して生きるしかない.                

『人格を尊重する』だの,言葉の美辞麗句を並べ立てると,ガキは自分のわがままを
その人格だと錯覚を起こして正当化してしまう.人間は,胎生で生まれるが,本当の
成長の過程には,何度も精神的な脱皮が必要なのだ.              

 例えば,卵の中のヒヨコは,自分の力だけで周囲にある殻を破って外に出ないと,
そのまま死んでしまう宿命なのである.外からの力に頼って割ったのでは成長しない
仕組みなのである.                             

 集団の中に溶け込めず,自分で殻も敗れず,『僕の人格を尊重して欲しい』などの
戯言を抜かすガキが増えている現実もある.こういう人間を学校が救う義務はない.
自殺するのは,言わば殻が破れずに死んで行く宿命である.           

 集団は,個人の思惑とは全く無関係に動いているものである.自分と外の世界は,
一体では有り得ないのが普通である.集団の中では,個人は集団のペースで行動する
必要がある.それが適応である.                       

 集団生活への適応が果たせなければ,その集団から抜けるしかない.自分の道が,
他にあると確信出来るならば,そうすることは間違いではない.ただ,個人の主張が
通らないからと集団を責めるのは筋違いである.                

 教育する側は,生徒のあらゆる疑問に明快に答えを出せなくてはいけない.生徒の
反発は,学校側が,明確に説明もできないような,意味が失われた規則に,無条件に
従わせようとする不合理から生まれる.                    

 大方の中年の先生は,学生時代に先生に逆らった経験がない.無条件に従う感覚が
息づいている.従って生徒の人権に配慮する思想的土壌はゼロである.逆らわれると
対処法が解らずに暴走する.                         

 俺様の高校時代にも,登校に際して,靴下の色を厳しく限定される校則があった.
そこには,規則に従える健全な社会人に育てる大義名分がある.言わば,順法精神の
シミュレーションの場が学校と言う訳である.                 

 然し,その実態は,『例え理不尽な校則であろうとも,それに従って,学校だけは
無事に卒業しておこう』とする,言わば事勿れ主義感覚を養う程度の意味しかない.
それは決して無意味なことではない.                     

 生徒に頭の固い教師を洗脳する義務はない.かと言って教師の自己満足に貢献する
義理もない.教師もガキに文句を言われるのは癪であるが,力で対抗出来なければ,
沈黙するしかない….教師も事勿れ主義に徹する.               

 車と交通弱者は,さながら教師と生徒の関係に似ている.双方それぞれが,勝手な
思惑に支配されて,自分の都合のいいように考えて行動するからである.それぞれの
思惑が外れて事故に繋がる.                         

 交通標語で『横断歩道を渡りましょう』とすれば,そこは絶対的に安全なのだとの
錯覚が起きる.ところが無謀な車には横断歩道など眼中にはない.何処であろうと,
安全の確認は自分の責任で行うしかない.                   

 自動車教習所では,注意して運転することの何たるかを,一応,実践的に教えては
くれる.それを卒業後も正しく守るかどうかは個人の資質が頼りである.人間自体の
完成度においては運転士と歩行者に差はない.                 

 歩行者が犯すような未熟な感覚で車を運転する人間とて珍しくはない.その証拠に
車同士がしばしば大きな事故を起こす.それも,明らかに,事前に危険が予測出来る
状況の中で,さながら必然のようにぶつかる.                 

 表面的には,事故は,人間の未熟さから起こるのだが,例えば,事故で死ぬのは,
自然界が仕組んだ自然淘汰の一環である必然もある.いかに人間の尊厳を強調しても
飢えた猛獣の前ではただの肉の塊に過ぎぬ.                  

 人間は,幸せを追求するために生まれて来た訳でもない.ただ,社会と言う小さな
檻の中で,真理を知らぬ人間が,そのような錯覚を起こしているに過ぎない.人間の
存在を考えるなら宇宙的見地から問う必要がある.               

 地球と言う惑星自体が未成熟なために,例えば,その地表に細工を施す人間と言う
形態の生物を必要としているのかも知れぬ.地球環境の汚染が進んでいるのも,実は
地球自体の意思かも知れぬ.                         

 やがて人の住めない環境へと変化することが,地球自体の成長であるかも知れぬ.
時に,人が大量に死ぬのは,死んだ人間のエネルギーを必要とする,何らかの存在の
意思であるかも知れぬ.                           

 高速道路で,一台の車の単独物損事故が,その後に続く車を巻き込んでの大惨事に
発展してしまうことがある.一見,偶発的な事故のようでありながら,もしかしたら
天体レベルの意思がもたらしたものなのかも知れぬ.              

 人間が多くの動植物を食糧にするように,人間自体もまた,更なる大いなる存在の
いけにえに供せられる存在であるのかも知れぬ.地球に飼われたブロイラーである.
だだ,そんな自分の宿命を知らぬだけである.                 

 新月や満月に事故が起きやすいのも,何らかの天体の意思が反映しているからで,
自分の意識レベルが,月の影響を受けて,普段とは違った状態に変化していることを
自覚出来ず,無意識に危険な行動に走ってしまう.               

 こうして考えると,人間が自分の意識レベルを注意深く観察して,不用意に事故に
巻き込まれぬように注意することは,或いは,ブロイラーとしての存在から抜け出す
ことでもあり,自然の意思に逆らうことであるかも知れぬ.           

 偉大なる真理に到達したとて,そこに人影はない.仕方なしに深山幽谷を離れて,
人間界に舞い戻って,教祖に収まって真理を説いて自己満足するのだが,人間界では
真理は地上の栄誉栄華に姿を変えて世俗の中に埋没する.            

 天体は,安易に人間をブロイラーとしての宿命から開放しようとはしない.それは
自然に対する反逆でもある.それ故に,巧妙に罠を仕掛けて,悟りに向かった人間を
堂々巡りさせて元に戻してしまう.輪廻転生とはこのことである.** 悪魔 **

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