無限メモリー

「何も彼も終わった…」そう思えて来た….
長い旅の果てに,今,やっと最終目的地へと
辿り着いた….自分が胃ガンの末期にあると
知ってから,恐怖と苛立ちの毎日であった.
今,初めて清々しい気分になれた.

 ガンの宣告を受けた当初の衝撃も,長くは
続かず,不安と苛立ちからタバコの量が逆に
増えた….今更,タバコをやめたところで,
何がどうなると言うのか? タバコは自分が
ガンである象徴にも思えた.

 この2〜3日,タバコを全く吸っていない
現実に気がついた.もはやタバコを吸い込む
元気がなくなっていた.タバコそのものに,
体が耐えられない感触があった.最期の時は
確かに近づいていた.

 仕事に対する執着も,なかったかのように
消え失せ,これまでの長い人生が,夢か幻に
変わった….全てを受け入れる精神状態とは
このようなものか? 赤子の精神とは,多分
こうなのかも知れぬ….

 胃の半分を切除した手術の後,ともかく,
退院する迄にこぎつけた後,三枝子のお蔭で
充実した生活が送れた.長距離のドライブも
厭わずに,自分から積極的に計画を立てて,
連れ出してくれた.

 気分的に治る希望もあった.そして医者も
大丈夫だとは言った.だが,進行性のガンで
あり,しこりがあちこちに増えている転移の
自覚は,覆い隠せなかった.突発的に恐怖が
襲った….

 旅から帰って来た時などは,放射線治療に
通っていた.気休めに過ぎなくとも,病院に
通う意欲が,少し気力を取り戻させる効果を
生んでいた.よく完治して元気になった夢を
みた.覚めた時が辛かった….

 治療が終わって放射線治療室を出た瞬間,
ベッドに横たわっていた.何が起きたのか?
俺様は,突然,倒れたようだ….看護婦が,
そう教えてくれた.これが最期の目覚めかも
知れぬ….

「お待ちどう様…」
 美枝子が着替えと,自宅で作った手料理を
運んで病室に入って来た.三枝子は,完璧に
献身的な妻だった.いささかの動揺も見せず
清楚な姿勢を崩す事はなかった.

 何故かガンを宣告されてからの方が,より
生き生きとして私の面倒をみてくれるように
思える….静かな臨終の時を迎えられる….
自分の一生がどうあろうとも,この一瞬が,
全てを浄化してくれる….

「三枝子….本当に,よく尽くしてくれた.
有り難う.然し,最期の時が来たようだ…」
俺様は,意識のある内に今までの礼を言って
おこうと思った.次に眠った時,あるいは,
二度と目覚めぬかも知れぬ….

 厳粛な気持ちで言ったつもりであったが,
三枝子は,明るく振る舞っていた….何処か
不安を感じさせる反応だった.俺様の言葉を
聞いた一瞬,三枝子は,心から明るくなった
ように思えた….

 俺様は,不安になった.三枝子は,俺様が
死ぬことはないのだと思い込んでいるのか?
俺様が突然,これで死んでしまったなら…,
その現実を受け入れられぬまま,気が狂って
しまうのではないのか?

 思えば,形ばかりの手術の後,完全看護の
病院でもあり,付添いの必要もなかったが,
必要な家事に家に帰る以外は,ずっと病室に
付いていた.それも最期の時を,共に過ごす
自覚からだと思っていた….

 例えば,かなり重症の患者でも,家族から
見捨てられる例も多い.家族それぞれ自分の
世界を持って,家族としてまとまる風潮すら
消えようとしている….俺様は,その意味で
恵まれた患者だった….

 ふと,三枝子が今までと違って見えている
ことに気がついた.それまで,当たり前だと
感じていた三枝子の献身的な姿だが….この
俺様には,本当は,およそ似つかわしくない
妻なのではないか?

 例えば,まとまった現金を定期にするべく
銀行の窓口を訪れたとき,女子行員が見せる
態度を彷彿とさせるものがある.会社生活で
接した部下の女子社員から,妻が示すような
献身的な態度に出会った事は一度もない.

 今でさえ,三枝子は,会社の若い女子社員
よりも数段上の美貌を備えていた.俺様には
三枝子の老け込む経過が,全然解らないまま
今日に至っていた.突然,湧き上がる世俗の
雑念だった….

 元々,顔が少女のような幼さを備えている
三枝子ではあった.子供のないままにずっと
一緒に暮らしている所為もあるのだろうか.
こうした場合,過去の写真と比較してみると
老いは歴然とする….

 三枝子の場合,そうした過去との比較でも
自然な老いが感じられなかった.若いのだと
単純に喜んでいたが….どうでもいいことと
思いながらも,その現象が,突然おかしいと
感じられて来た….

 病院の看護婦や医師にも,美枝子が妻では
なく,娘だと思われた経緯もあった.だが,
実際には彼女は俺様よりも3歳年上である.
彼女との出逢いは,他の女性の存在を,全て
完全に希薄にさせた….

 見合いの席で彼女を見た瞬間には,相手が
結婚を承諾するとは,思ってもみなかった.
ただ,美しい人が間近にみられた….そんな
ささやかな満足感だけで十分だった.最期に
そんな思い出が蘇る….

「あんな部長が,どうしてあれ程の女と結婚
出来たのか?」
 そんな陰口が叩かれていたことについても
怒る気にもならなかった.それ以上の喜びが
あるばかりだった.

 ともかく,年功だけで部長になれた俺様で
あった.それ以上の出世は,望めない社内の
雰囲気があったのだが,三枝子との結婚で,
俺様は変わった.社内での評価を上昇させる
何かをもたらした….

 どんなに遅く帰っても完璧に迎える姿勢を
崩さなかった三枝子であった.訪れる会社の
上司や部下への接待も完璧だった.あるいは
そういう妻の配慮があって,俺様の出世が,
もたらされた?

 仕事の能力を自己評価しても,俺様には,
これだけの地位と評価を受けるには値しない
人間であると,いつも感じていた.あるいは
この不似合いな出世に伴うストレスがガンを
誘発したのか? 

 既に,この世での役割が終えた感覚の中,
呪縛から開放され,感じられなかった疑問が
湧き上がって来た.三枝子がここまで俺様に
献身的になれる理由が,全然解らない現実が
あった.

 さしたる学歴もなく,これと言った資産が
ある訳でも,家柄が良い訳でもない俺様と,
敢えて結婚する理由など全くない.それでも
自分の過去については何も語ろうとはしない
三枝子ではあった.

 俺様も,その美貌と献身的な姿勢の前に,
それを問いただす必要もなかった….改めて
考えてみると,一体,三枝子は,その過去に
どんな人生を歩んで,何故に,俺様を選んで
結婚したのか? 

 忌まわしい死の瞬間が,極めて,安らかな
ものに感じられて来た中で,突然湧き上がる
妻に感じる違和感は何なのか? 妻に弱さは
ない….まして,俺様の死に,気が狂うなど
あろう筈もない….

 俺様が,まもなく死ぬであろうとは,百も
承知の三枝子である筈だ….或いは…,既に
他に好きな男手も出来ているのか? そして
俺様の死を待っているのか? 仮にそうでも
恨みはなかった….

 だが,今まで家を空けたこともなければ,
休みに外出することもなかった.昼間,男と
逢っていることも考えられたが,家事の類は
完璧にこなしており,家の中に塵一つ落ちて
いたこともない.

 夕食の献立にしても,手軽に作れるような
ものではなかった.材料は,それ程,高価な
印象はないが,時間を掛けた痕跡が,十分に
伺える料理ばかりであった.昼間,出歩いて
できるものではなかった.

 インスタント物をよく使ってはいた.が,
それは値段の安さに価値を見いだしたもので
そこにかなり手を掛けた味の痕跡があった.
肉類と魚類,野菜,海産物等のバランスも,
絶妙であった.

 夜遅く,突然会社の人間を連れて帰っても
きちんと,それなりの料理を出して,完璧な
接待をこなした.予め,来ることを予測して
用意したのではないのか? そう思える位に
手際がよかった….

 買い物に至っては,定期的に,スーパーの
チラシをチェックして,特売日等を効果的に
利用しても,決して,無用な買い物はしない
配慮も忘れなかった.だが,上品な三枝子に
似合わぬものがあった.

 家事にかけるエネルギーを考えると,もし
この合間を縫って,男と逢っているとしたら
それは,天晴れではある.俺様が亡き後に,
三枝子が誰と暮らそうが,自分にはどうでも
よかった.

 疲れた….余計な事は考えずに,安らかな
眠りに就くことを考えればいい.一方では,
そういう心境でありなからも,会的な関心が
薄れたことで,その分,妻に対する関心が,
必然的に大きくなった?.

 確かに,妻が何を考えていようと,俺様に
ここまで尽くしてくれたことで十分である.
幸せな夢をみて居られた人生である.例え,
金を出しても,ここまで尽くしてくれる女は
いないだろう….

 病院の看護体制をみて感じるが,建前では
『完全看護』ではあっても,現実の看護婦の
仕事には手抜きが目立つ.例えば,定期的に
配付する薬も遅れるばかりか,時に,完全に
忘れられることもある.

 こまかい用事など,催促してさえ,延々と
待たされて苛々している患者が多い.医師や
看護婦に対する謝礼の有無で,看護の扱いが
変わってくる実態もある.三枝子の付添いで
看護に隙間はなかったが….

 夢の中で,俺様は,三枝子になっていた.
台所に立って,献立を考えていた.食器棚の
一番下を開けた.そこは書棚になっていた.
献立の本の中の,食品添加物に関する書籍に
かなりの手垢がついていた.

 書棚の奥に,見覚えのない電子手帳らしき
機器が隠されていた.最新型のザウルスとも
比較にならぬ機能が備わっている.明らかに
それは,未だこの世に誕生していない機種で
あった.

 驚嘆すべきことに,メモリ容量が無制限の
信じられぬ仕様を備えていた.俺様の意識は
それを見ただけで内容を捉えていた.献立に
苦心している姿の一端ではあったが,何処か
違和感があった.

 それは三枝子の意識ではなく,俺様自身の
意識だった.不思議な料理の手順であった.
輸入物のレモンの皮を切り取り,擦り卸して
実と一緒に絞った汁を取る.皮まで無駄なく
使い切る….

 即席のハンバーグ等には,そのタレを鍋に
取り,強火で煮た後,ハンバーグを加えて,
じっくり煮込んでいた.レトルトパック物は
お湯だけで温める手抜きをせず,中身を鍋に
移し強火で煮る….

 野菜は剥いた皮をまとめて,時間を十分に
かけて,じっくりと煮込んでスープの材料に
していた.何故に,この全く同じパターンが
多いのか? 俺様が感じる疑問に,三枝子の
意識が答えていた….

 あらゆる味付けの市販品には必ず調味料に
『アミノ酸等』と言う表示がなされている.
これは体によくはない.高い発癌性を秘めた
化学調味料である.これによって,毎食必ず
発癌物質を摂取する仕組みである.

 これは将来,年金支払いに関わる財政上の
逼迫を恐れた政府が,積極的に国民の寿命を
コントロールすべく,働き盛りを過ぎた頃に
着実に発癌させ,受給資格が発生する前に,
葬り去る計画の一環であった.

 この世界は,DNAを所有する生命体との
共存共栄を図ろうとしない.擬似高等生物が
食するものを,他の生命体と共有することを
嫌う.微生物は徹底して殺され,一人人間が
生存権を主張する….

 料理をしている三枝子の観念に,そういう
電子手帳の記述内容の背景にあった.料理の
手順が一段落した三枝子は,電子手帳の別の
ファイルを開いて,現在の状況を記録すべく
書き始めた.

「市販の食品を利用した実験は,いよいよ,
その最終段階に到達した.様々な食品の中に
含まれる擬似高等生物に対する有害物質は,
当初,予測された以上に,強い影響があると
判明した….

 遺伝性が全く見られない『ケース3』での
事例では,僅か二十年にして,着実にガンを
誘発させる実験に成功した.まもなく,この
実験は最終段階を迎える.哀悼−−これは,
疑似高等生物の未熟な感情である」

 ふと目が覚めた.意識がはっきりすると,
今までなかった,酸素マスクがあてがわれ,
脇をみると三枝子がいた.意識が夢の延長の
中にあった.もはや彼女は,地上の存在では
ないと知れた….

 色々と思い当たる事がある.朝食にいつも
出されるウインナを食べて出勤すると,必ず
途中で何とない気分の悪さが漂った….妙に
薬臭く,それでいて,いかにもおいしそうな
ピンク色したハム….

 夜食の即席ラーメンは,濃い味付けを好む
俺様に合わせて,化学調味料を,ふんだんに
含んだスープを煮詰めて,更に別の添加物を
混ぜる工夫がなされてもいた.あれらは…,
総て俺様を癌に侵させる為の….

 美枝子は,先程まで,俺様が夢の中にみた
電子手帳に向かって記録を整理していた.
「やがて『ケース3号』のこの世での最後の
目覚めの時が来る…」そこまで感知した時,
突然,意識が分離した….

 その内容を読み取ることは出来なかった.
三枝子が振り向いた.電子手帳を隠すことも
せずに….俺様の死期を見越して,もはや,
その必要もなくなったのか? 不思議にも,
恨みの気持ちはなかった.

 その正体は解らぬが,感じていた美枝子に
対する疑問が一挙に解けた安堵感があった.
後,二十年や三十年,長生きしたところで,
さしたる違いも感じられなかった.今まで,
何をあくせくしていたのか….

 こうした無意味な人生を,人間は,無限に
繰り返して行く….人生の,無意味な実態を
知り得たのに,再び赤子となって誕生して,
総てを忘れて外界の変化に翻弄された人生を
送ってしまう….

 気がついた時には,この世での生活自体が
終わってしまう….この無限の繰り返しを,
何処まで続ければいいのか….一つの人生が
終了する度に,一生の間に蓄えたメモリーが
クリアされる….

 すべての人生の記録が何処かに記録されて
残されている.何処かでそんな話を聞いた.
だが,多分,覚醒に結びつかない,無意味な
部分は,何一つ記録されない.俺様の前世に
何の記録もない….

 ふと美枝子の持つ進んだ電子手帳の機能が
脳裏を過った.類推される科学技術の高さに
裏打ちされる生命体の人生観とは,果して,
どのようなものなのか? 生前の記憶まで,
管理できるレベルにあるのか?

「美枝子…」
 声に出したつもりだったが,雑音にしか聞
こえないノイズが喉から出た….美枝子は,
いつものように笑顔を見せた.
「美枝子…」声が出た….

「電子手帳にまで無限メモリーを持つ君達の
人生観ってどんなものなんだい?」
 その瞬間,美枝子の笑顔がパタリと落ちて
床に転がった−−俺様はその笑顔を拾って彼
女に返した.

「知ってたの…?」
「ああ….ずっと昔…,初めて君と見合いを
した瞬間からね…」
 急速に意識が失われて行った.嘘がばれぬ
内に死ねる幸福を感じていた. END
小説の表紙へ