鎮静化した報道の中で考える

鎮静化した報道の中で考える

 神戸での事件で,何よりも明らかなのは被害者の存在である.そして犯人とされた 中学生が逮捕されたという報道が異常に過熱した.既に警察発表とマスコミ報道で, この中学生は,完璧に真犯人として扱われている.                 数週間ほど前の頃か,中学生の両親が被害者宛に,謝罪の手紙を書いたとの報道が 流された.差出人の住所はなかったとされるが,いたずらの可能性も少ないようだ. 容疑者の両親も,わが子の犯行に戸惑っている….                 マスコミの犯人裁きの大合唱の前に,容疑者の家族は,わが子を信じる発言すら, 許されない雰囲気である.様々な疑惑と可能性が考えられる中で,確証もない状況で 真犯人と断定,裁きの繰り返しだけに移行したか?                 遺族にしてみれば,突然の被害に遭って子供が亡くなり,犯人が逮捕されたのに, 当の犯人や,その両親からも何一つ詫びの言葉がないとなれば,現実の犯人逮捕が, 絵空事に思えるだろう.まさか冤罪だとは思わぬ.                 子供を突然失ったショックから,犯人について冷静に考えてみるゆとりなどない. 警察やマスコミの発表は,そのまま心の中に受け入れられる.実際,客観的に報道を 見ている多くの人間ですら,そう思い込んでいる.                 どれだけの人間が,逮捕された中学生が,犯人であることに疑問を持っているか? 週刊新潮8/28に依れば,久米宏が7/7,自らのニュース番組の中で,かの中学生は 犯人ではないかも知れないとの発言したとされる.                 その根拠は,ノコギリが沈んでいる沼などは日本中に千はあるだろうとの推測で, 別の記者の言葉を借りて,所詮,その程度の根拠に過ぎぬと,こき下ろされていた. 果して久米宏は,何処まで自説を押し通せるのか?                 それはともかく,マスコミにも俺様のような変わり者がいることも確かなようで, マスコミの扱いは,概して冷やかである.然し,報道が沈静化している現在,改めて 考えてみるがいい.あの首斬りは中学生の犯行か?                 既に,真犯人として既成事実化されてしまった中学生であるが,バモイドオキ神が 誕生した経緯など,まるで明らかではなく,突然,小説のように現れて来た不思議が 印象に残る.その誕生に気づいた者は居なかった.                『犯行メモ』とは,本当に自らが行った行動を記した内容であったのか? 俺様には 単純な作文にしか思えない.然し,警察は『犯行声明』を作文だとした.ここには, 虚と実が巧みに入れ換えられていることはないか?                 被害者の存在という歴然とした現実は否定できない.然し,その犯人とされている 中学生の犯行が,何処まで歴然とした現実だと言えるのか? 本当に犯人と断定して これを裁いて,間違いのない存在であるのか否か?                 俺様は,こうした事件の場合,射撃の感覚で容疑者を捉える.俺様は,日常的に, 標的に向かってモデルガンを構えて,引金を引く空撃ち練習を行う.射撃の基本は, このような空撃ち練習だけで十分腕を上げられる.                 それは,俺様にとって視力の訓練でもあるが,その極意とするところは,決して, 狙いが定まるまで,引金に力を入れないことだ.俺様が,神戸首斬り事件で,犯人に 狙いをつける時,その標的は揺れ動き続けている.                 愚かなマスコミ報道に乗せられた世間のバカどもがするように,いい加減に銃弾を 浴びせかける勇気はとても生まれない.浮世のバカどもは安易に弾丸を撃ちすぎる. 本当の敵が現れる前に,弾切れになり,力尽きる.                 安易に撃った銃弾で,無関係な人間を撃ち殺しているかも知れないのだ.狙うべき 本物の標的が何処にあるのか,それを明確に見極めようとする姿勢が現代にはない. 冤罪が立証されても,世間は騒ぐ元気もなかろう.                 被害の現実は固定されて,はっきりしている.然し,真犯人の姿が全然見えない. 非常に不公平で,我慢のならないイライラが募る.こうした中で,警察が犯人逮捕を 発表した瞬間,憤懣が一気に容疑者に向けられる.                 宮崎勤が別件で逮捕された時もそうだった.ただ,この時は,事前にマスコミが, 宮崎逮捕を嗅ぎつけていた形跡がある.彼の生活環境をそのままプロファイリングの 形態でマスコミが事前に報じていた経緯があった.                 今回の首斬り事件は,寝耳に水の突然の発表で,誰も容疑者の人となりを知らない 状況だった.それも警察自体,何一つ証拠固めが済んでいない状況の中で,中学生を 容疑者と断定して,マスコミはそのまま報道した.                 今回の事件は,改めて,警察の発表,マスコミ報道から一般への伝達という形態に 何一つ検証がなされない風潮が,厳然と生き続けている現実を明らかにした.危険な 風潮は,ものを考えない世界の必然的結果である.                 世間で展開される嵐のような容疑者叩きに,逆らう術とてない両親は,マスコミの 報道に煽られて,訳も分からずに,謝罪の手紙を書かざるを得なくなってしまった. 子供を信じたくとも,それをマスコミが許さない.                 子供をあくまで信じる意見を言えば,マスコミはこれを徹底して叩くことは,目に 見えていた.何も言わない中ですら,執拗な裁きが続いたのだ.もし本当に中学生が 首斬り殺人を犯したら,ここまで子供を責めるか?                 むしろ,現実的な事件の背景に焦点が絞られて来るのではないか? 然し,何一つ 現実的な事件の背景はないのである.単に,突発的な子供の心の中に生まれた神様が 原因であるかのように言われて一件落着のようだ.                 殺人に関して,何一つ現実の世界との接点のない動機に満足して,後は,徹底して 容疑者の中学生を叩くだけで,事件を闇に葬り去ったのはマスコミである.現実的な 接点がないのは,事件の経過の中にも現れている.                 間違いのない容疑者が犯した犯罪だとの確信があれば,マスコミは少年の行動を, 現実に追跡調査くらいは行うものだ.『この辺りで被害者の首を絞めて,このように 中に運び込んだ』とか.警察の現場検証とてない?                 それはそうだろう.現実に,それを検証したら,不自然な点が浮き彫りにされて, ボロボロになってしまう.現実の事件に,あり得ぬ犯人を持って来てしまった矛盾と 薄弱な根拠を異常で執拗な徹底した裁きに変えた.                 今,改めて振り返れば,マスコミの中学生裁きは,妙に,白々しく,また空々しく 感じられて来る.然し,当初は学校への恨みだと現実的な接点から入った筈だった. 然し,動機は結果的に完璧に現実の接点を失った.                 何が何でも校門に首を晒さなければならないとした,強い現実的な動機も,完璧に 消え失せてしまったのだ.後は有罪の確定した真犯人であるかのように,マスコミが 執拗に騒ぎ立てて,異常な少年の行動を強調した.                 中学生が現実に犯した犯罪であるなら,もっと真剣に事件の背景に迫れる.然し, 現実との接点を完璧に否定することで,警察は,自らが捕らえた中学生の犯行すらも 自らの手で曖昧にする誠に変なトリックを使った.                 マスコミとて,自らが裁いている事件について,冷静沈着な観察を行えば,警察の 発表自体に多くの矛盾があることに気がつく.或いは気がついているのかも知れぬ. 然し,求めるのは真実ではない.騒ぎなのである.                                        ** 悪魔 **       ・目次に戻る