いじめの元凶はマスコミにあり

いじめの元凶はマスコミにあり

 マスコミは性懲りもなく,連日,証拠もない事件に,容疑者叩きに躍起となって, 少年の悪い材料を捜し出しては報道する.幼く未熟な頭デッカチのマスコミである. 自分が何をしているのかも,実は分からないのだ.                 迷える子羊のようなマスコミである.然し,その気の毒なマスコミが,猫殺しでも するかように,少年を連日,いたぶる現実は正視に耐えない現状である.同じような 記述の連続になるが,敢えてそれを書き続けよう.                 今,神戸首斬り事件に関して,マスコミが出来ることは,警察の逮捕が妥当なのか 否か? 少年は,本当に犯人なのか? きっちりと基本的な原点に立って,疑問点を 明らかにすることである.少年を裁いてどうする.                 マスコミが,現実に今,行っていることは,何の抗弁も出来ない少年に向かって, その忌まわしき行動の数々を並べ立てて,世間に公表していることだけである.もし 無実となって釈放されても,少年の居場所はない.                 証拠もないのに,単純に,警察が任意同行の結果,自白させただけで,マスコミは 全国の少年に向かって,容疑者となった少年を,いじめるように煽動したのである. 証拠が出るまでの暇潰しにいじめを実践している.                 晴れて無実となって家に帰る少年に安住の地はない.『何にもしてへんのに,何で マスコミから悪く言われなあんかのや.これじゃ学校と一緒やないけ』こうなれば, 再起不能である.無実は,完璧に否定されている.                 例え,少年の行動に問題があったとしても,警察に逮捕された経緯に,マスコミが 冷静に対処して,無実の可能性を信じて,警察発表の真偽に厳しい目を向けていたら 出てきた少年の心にも,社会の優しさが伝わる….                『もう学校へ来なくていい』少年が,こう言われたことが,マスコミで報道される. 『もう社会に来なくていい』マスコミは,少年に対して,このように宣言したのだ. 同じことは7年前の宮崎勤事件から進行中である.                 裁きは,法廷の場で,判決が下される時に,初めてなされるのだ.それ以前に誰に 裁きの権利があるのか? 誰にもありはしない.証拠もないのに犯人呼ばわりして, 事件の無関係な悪行の数々を並べて,責め続ける.                 これは最悪のいじめである.『普通とは違う毛色の変わった人間なのだから,幾ら いじめようが叩こうが関係ない.どうせそのうち証拠もあがるだろうし,それまで, 待ってはいられない.徹底して裁くのだ』である.                 学校におけるいじめの基本的な構造は,そっくりそのまま,マスコミの報道姿勢と 断定できる.証拠もなしに人を裁き続けたマスコミの態度が,子供たちに伝わった. 存在しない裁きの権利を行使した罪は重大である.                 いじめの構造を観察してみれば,これは『権利のない無効な裁き』である.何人も 人を裁けないのに,あたかも裁く権利があるごとく報道を繰り返す….子供たちは, ただそれを真似して仲間を裁いているだけである.                 いじめをする側には,罪悪感がないとも言われるが,マスコミとて,自らの行動に 全く罪悪感などは感じていない.むしろ容疑者とされる中学生を裁くことが,正義を 実現させる手段なのだとの強い確信を持っている.                 中学生の唯一の味方は,6人とも8人とも言われる弁護団の筈だが,一体,彼らは どんな活動をしているのか? マスコミ報道の嵐の前に,なす術もなくただ沈黙して その活動の成果らしきものが,全く見えて来ない.                『逮捕される』と言う現象には,その理由が本当か嘘かの二つの可能性に分かれる. 判決が出るまでは,中立の立場で報道するのがマスコミの責任である.一本の棒には 二つの端がある.箸を持つたびに思い出すがよい.                 俺様のような意見があって,初めてバランスが取れる.言わば俺様は,文字通り, マスコミの片棒を担いでやっているのである.テキは,そんなこと望まんだろうが, これでマスコミは,透明な存在から救われるのだ.                                        ** 悪魔 **       ・目次に戻る