『宮崎勤精神鑑定書 多重人格説を検証する 瀧野隆浩著』を読んで(1)

『宮崎勤精神鑑定書 多重人格説を検証する 瀧野隆浩著』を読んで(1)


 この本の所在は,新聞広告で知っていたが,手に入れる機会がなくて,電子手帳の 中で,ずっと繰り越し事項の一つになっていた.近くの書店になかったこともある. 数日前に,やっとこの本を遠くの書店で購入した.                 第一刷発行は判決前の今年1月23日である.既に第五刷まで版が重ねられている. この本の内容は,第一審で『信用出来ない』とされた『関根・内沼鑑定』について, 毎日新聞社会部記者が,その印象を書いたものだ.                 この著書から受ける印象では,この鑑定をして『到底,信用出来ないもの』として 一蹴するにはあまりにも大きな問題を残していることを感じる.本人すら知らぬ間に 犯行が行われた可能性を暗示して不気味でもある.                 本書の中の記述として,多重人格は,七歳以前に,性的虐待など,精神的に苦痛を 受けて発病するもので,大人になってからの発病は皆無であるとされている.敢えて 拡大解釈すれば精神的苦痛だけが原因になりうる.                 つまり,忌まわしい記憶を自分の中から消したい欲望が,別の人格を自分の内側に 形成してしまう.然し,宮ア勤が手の障害から多重人格になろうとも,手の障害から 逃げられる訳ではない.肉体的障害はついて回る.                 つまり,肉体的障害者は,それがどんなに苦痛でも,多重人格になりようがない? こういう前提を考えてしまう俺様である.然し,元の人格にはない,例えば肉体的に アレルギー反応を起こす多重人格の症例があった.                 この本から感じられる宮ア勤がひじょうに子供っぽい性格であることが気になる. もし,彼が例外的に大人になってから多重人格を発病し,別の人格の中で,手にある 目立たぬ障害を超えた動きが可能だとしたなら….                 実は,彼が幼女の首を絞めて殺す行動自体が,彼の言葉によれば,『憎くなっても 手に力がないから…』と言う記述がある(145頁).彼自身に,子供の首を絞める 力がなかったとしたら,どういうことになるのか?                 つまり,一審判決が信用できないとして一蹴した関根・内沼鑑定の中で,手に力が ないと述べられていたとしたら,宮崎自身が本当に手に力がないのかどうか,それが 確かなことかどうかを検証する作業が必要である.                 更に重大な一点として,宮ア勤には性欲がないと述べられている,一見信じがたい 部分である(185頁).犯行の動機が『女性性器を見たい』,『自分の性的欲望を 満たすため』とされた動機が,消し飛んでしまう.                 例えば,性欲は,一般に『本能』であると誤解されている.然し,これは,単なる 反射作用に過ぎない.本能とは,それなしでは生きられない能力である.例え性欲が 満たされなくとも,それが原因で死ぬことはない.                 生物的な見地からみれば,種族保存の本能として考えられるが,個々には,本能で ある必要はない.従って,全く性欲を感じない人間がいても不思議はない.もしも, 彼が真犯人ならば,動機は他に考える必要がある.                 一般に,裁かれている一連の幼児連続殺人事件の動機を大人の女を相手に出来ない 男が,か弱い幼児をそのSEXの対象にした憎むべき犯罪であると考えられている. 宮崎に性欲がなければ事件の真相は根底から覆る.                 俺様は,宮ア勤が積極的に自らの犯行を認めて,進んで上申書を書いた点に,強い こだわりを持っていたのだが,この本の中で,重大な事実が指摘されている.それは 『犯行声明』と『上申書』筆跡が全く違うことだ.                 ここで著者が告白しているのだが,当時の情勢でこの二つの筆跡が別人のものでは 『ニュースにならない』として,各新聞とも『同一人物の可能性強い』と報道した. 強引に宮ア勤を犯人としてでっち上げに掛かった.                 あの当時,マスコミが実名呼び捨て報道をしたことに,突然,掌を返したように, 反省して,名前を出さないようにするとか,自粛ムードが高まった….もしかすると 筆跡の歴然とした違いが誤認逮捕を匂わせたのか?                 宮ア勤は,猛々しい大人の男に強い恐怖を感じる.『警察は,言う通りにしないと 怖い』とする告白が随所にみられる.強引な取り調べに会えば,逆らうことも出来ず 萎縮して,言いなりになる必然が想像されてくる.                『警察の話に合わせないと酷い目に遇うから早く終わって欲しいと思った』(216頁) こんな警察での取り調べの状況も告白されている.大人に成長出来ず,然も,性欲の ない人間は厳い大人の前では従順になるしかない.                 この本の中に漂う宮ア勤の印象は,全体に,目に見えぬ得体の知れぬものを信じる 傾向を感じる.このような人間は,暗示に極端に弱く,不合理なことでも言われれば 頭から信じてしまう傾向があることが感じられる.                 宮ア勤が遺体を遺棄した場所で,車を脱輪させたとされる一件では,その事実には 全く記憶がないとしている.救助した二人は,その車種はラングレーではなかったと 証言した.然し,警察は被告のラングレーとした.                 著者は,遺体遺棄を認めて何故この些細なことを認めないのかと憤るのだが,もし 彼自身ではなかったとすれば,彼には認めようのないことである.実際,警察は何故 車種にこだわり,人物が宮崎だと特定しないのか?                 二人の証言が,車種だけに限定して,脱輪させた車に乗った人物が宮ア勤であると 断定する方向に向かわない不自然な一点がずっと気になっている俺様である.犯人が 他の車を使う可能性の方が高い筈だとも思える….                 然し,警察はあくまでも被告のラングレーであったと主張し,そこにいた人物が, 確かに宮ア勤であったか否かを明らかにしていない.誰も疑問視しない点であるが, 人物と車種のどちらを特定することが重要なのか?                 俺様は,宮ア勤逮捕の瞬間から,彼が犯人であることに強い疑問を持って来たが, 最近,手に入れて読んだこの本からも,その疑惑を裏付ける要因が,続々と出て来て 驚愕している.果して,これでも彼は犯人なのか? ** 悪魔 **       目次に戻る