当初の違和感と秘められた使命感

当初の違和感と秘められた使命感


 テレビ画面で初めて宮ア勤の姿を見た瞬間の印象は,もしかしたら,彼は,とても 清らかな性格を持った人間なのではないか? マスコミが伝える極悪非道な姿からは 全くかけ離れた印象が過って,俺様自身が戸惑った….               その印象は,週刊文春4月24日号掲載の宮ア勤と一人のOLとの文通内容と奇妙に 一致する.彼は,こういう人間なのだとうなずけるものがある.このような人間には 殺人事件の容疑者と言う立場に対処できない.                   彼の六千本にも及ぶというビデオ収集,それはもはや現実を超えた仮想の世界で, そこから,他に欲望の捌け口を知らぬ,愚鈍で無趣味な人間が犯すような,猟奇的な 連続殺人との結びつきに強い違和感があった.                   例えば,肉親が死んだ悲しみに浸っている最中に,同時に,他人の不幸に涙を流す 感情的なゆとりは生まれない.人間が夢中になれるものは常に一つでしかない限界を 俺様は感じるのである.                             自己の痕跡を残さず,連続殺人を犯し,犯行声明やら告白文を書き,更には遺体を 焼いて遺族宅に届ける….そこに至るまでの計画や,実行までの決意,これは大変な エネルギーの流出であろう.                           衝動的なエネルギーが,ビデオ収集への集中力を超えて,連続殺人に向かうことが 本当に有り得るものか? 勿論,満たされぬ欲望の代償行為がビデオ収集であったと 考えることも出来る.                              然し,彼は幼児そのものより,実はビデオそのものに強い関心があったと思える. 逮捕された後も,自分のビデオの扱いを心配する位に,ビデオ自体への強い関心が, ずっと継続されていた.                             文通相手のOLの印象も,早く拘置所から出て,ビデオやアニメ雑誌のある部屋へ 帰りたがっていると感じている.彼は,感動的なものだけを心に留めている人間で, それ以外のことに対処の方法を知らない….                    然し,現実に起こった犯罪の形態は,最終的に幼児を殺すことを目的にした犯行で 殺人自体に強い関心を持っていた印象がある.この犯人が,同時に一方で六千本もの ビデオ収集していたとは,にわかには信じられない….               本当に彼が真犯人ならば,そんな人間から一種の清らかさまで感じ取ってしまった 俺様は一体どんな感覚の持ち主なのか? 一歩間違えば,凶悪殺人犯を擁護している 印象すら与えてしまう.実際,そう受け取られたこともある.            精神病の中には,特定の人間に対して,それがうり二つの別の人間がなりすまして 周囲を欺いているのだと感じる症状もあるという.それを考えると,俺様自身もまた 精神病患者である.これを信じたお前らもである.^_^;               俺様が当初から,宮ア勤は冤罪ではないかとした疑惑は,一審判決が出ても,全く 変わらぬばかりか,逆に冤罪である強い確信を抱かせる効果をもたらした.病ならば 相当に重症である.                               俺様が,何故この事件に,ここまでこだわり続けるのか? 正直なところ俺様は, 宮ア勤自身とは何の繋がりもない.言ってみれば,彼は全くの赤の他人に過ぎない. 彼が殺人犯でも無実でも俺様には関係ない.                    ただ,この事件の容疑者逮捕からの経過が,遠い昔,およそ四十五年前に遭遇した 未解決の事件との,奇妙な連動性を感じる.それ故に,その事件からの教訓がここに 生きているのだ.                                その事件に関する拘りが,この宮ア勤に関わる事件に執着する理由でもある.昔の 事件は,敢えてそれを明らかにしても,社会的には,ほとんどその意味を持たない. 現在進行中の今回の事件は,それを世に問う価値は十分にある.           俺様個人からすれば,昔のその事件についての詳細を書くことの方が,深い意味を 持つものだが,それは,ほとんど内輪の問題に過ぎない.この体験が,現代に生きる 道が開かれれば,生きた体験に変わる.                      然し,俺様の世界は,基本的に『反マスコミ』の姿勢を貫くものである.従って, これが広くマスコミで取り上げられる期待は持てない.これはマスコミ自体が,彼と その家族を裁判なしに死刑判決を下した事件だと言えるのだから….         それでもインターネットの世界は,俺様に表現の場を提供する効果をもたらした. 例えば,本を書いても,それが出版されて書店に並ぶと言うのは大変な確率である. そこまで進むのは並大抵のことではない.                     首尾よく多くの確率をクリアしても,商業主義の世界では,それが売れなければ, 瞬く間に店頭から姿を消す….幾ら本を書いても,それが書籍として十分に効果的な 力を発揮するのもまた,巨大な確率を通過しなければならない.           インターネットの世界では,これが自分の希望する期間,何者にも邪魔されずに, ずっと掲載が可能である.ホームページを維持する限り,最終判決が下された後でも 存在を維持することが出来る.                          無論,書くことを収入に繋げると言う意味では,全くその効果は期待出来ないが, 一種の使命感をもって書く前に,僅かばかりの収入を期待するさもしい根性などは, 最初から捨てて掛かって悔いはない.** 悪魔 **              冒頭に戻る