『核マル派』という書き間違いからの雑念

『核マル派』という書き間違いからの雑念

 俺様は,今まで『核マル派』と書いて来たが,正しくは『革マル派』ではないかと 読者からの指摘を受けた.俺様の勝手な思い込みで,間違った状態で辞書登録した. 後は,自動的に同じ間違いを執拗に繰り返した….                 今までのデータ全てを修正するよりも,これを俺様自身の未熟さの証として留めて 修正に代える.本当は,書き替えるのが面倒なだけである.『名前を間違えることは この上もなく人を愚弄する行為である』のだ.^_^;                 ついでながら『宮崎勤』の『宮崎』の文字も実は間違っている.ただ正しく書くと Windows 95など,限られた環境以外では文字化けになってしまう.それでも当初は, 正しく書いたが,入力機器の都合からこうなった.                 パソコン通信の始めの頃は,漢字も使えず,半角のカタカナでデータのやり取りを こなしていた時代があった.実際,ほんの数年前まで,その伝統的な書き方に俺様も こだわりを持って書き続けていた部分もあるのだ.                 既に,インターネットの世界では,この半角のカタカナも使用できなくなった…. それでも俺様は,今,盲人と電子メールを送受信することもある.今,かな漢字でも ほぼ,正確に音声で読み上げてくれる時代である.                 特殊なソフトで,今や盲人も通常のかな漢字混じりの文章を書ける技術を習得する 人々もいる.だから俺様が通常の文章を書いて送信しても差し支えはない.それでも うまく読めない漢字が出てくることは避けられぬ.                 そこで,確実に情報を伝えるためには,カナだけで書いて送信すれば,読み上げも 確実になる.例え全角の仮名だけの世界でも『デジタル・ブロック書法』は,確実に 守って書く.さして意味があるとも思わぬのだが.                 ソレワ タトエバ コノヨーニ ハツオンニ チュージツナ カキカタヲ スル. モージンガ テンジデ カクトキ コノヨーナ カキカタヲ スル.カカレタママ  スナオニ ヨメバ シゼンニ アタマニ ハイル.                 メデ モジヲ トラエテ カンジノ イミヲ ハンシャテキニ ヨミトル トイウ フツーノ ニンゲンノ シューカンニワ ナジマナイ ブブンモアルガ ハツオンデ トラエルノダト イシキヲ キリカエレバ イイ.                 パソコンノ ヨミアゲソフトヲ ツカウ ゼンテーガ アレバ カナヲ ツカッテ スベテ カキツヅケテモヨイト シンケンニ カンガエテイル クライダ.シカシ  モハヤ イッパンジョーシキカラ トオクナッタ.                 それでも俺様は,盲人との接点,或いは,外国人が使う日本の文字の原点として, 仮名だけのコミューニケーションの可能性を考えておく必要もあるかと考えている. 『デジタル・ブロック書法』は,そこでも健在だ.                 これを見ても,俺様の文章作成能力が,いかに卓越したレベルにあるかが分かる. そんな俺様ですら,人から指摘を受ける間違いを犯すのである.人間は,この世では 人間以上の存在になれない.未完成が宿命なのだ.                 自らの過ちを修正する柔軟性を持ち合わせていないと,この世で果たせるわずかな 成長からも見離されて,必然的な退化を余儀なくさせられる.松本サリン事件でも, 全く反省しないマスコミは更に腐敗へと移行する.                 あらゆる行動は,正しいか間違いか,絶えず外界の反応を見ながら,正されて行く 必然がある.動物の世界では,それが弱肉強食の厳しい環境に適応する生きる知恵に 繋がる.その能力を失ってしまえば死ぬしかない.                 あるべき自らの姿を保つためのしつけや教育を誰からも受けられなかった存在は, 歪んだまま,動物的に成長してしまう.そこには天敵のいない人間としての不幸も, 大きく影響する.警察もマスコミも天敵がいない.                 本来,天敵のいない存在は,自らの内に生まれる崇高な使命感を鏡として,自らの 姿を映して自らを正さねばならぬ.然し,彼らは明らかにあるべき使命感を失って, 盲目になっている.何をしているかの自覚もない.                 自分が本来何をなすべきかの自覚を,新鮮な感覚で常駐させ続けることは難しい. いかに強固な使命感を持とうとも,それはやがて次第に新鮮さを失い,習慣的になり 実感が乏しくなって遠く離れても気づかなくなる.                 自らを完成された存在だと思い込み深く宣伝する新興宗教の教祖も,いつの間にか 世俗の人間と変わらぬ欲望の塊になってしまう.それでも尚,崇高さを保つ使命感に 忠実なのだと思い込みの中に埋没したままでいる.                 マスコミは,自らと同じように大衆を洗脳する宗教団体に恐れを抱く.自らの敵と 考えているのかも知れぬ.だから周期的に宗教叩きのお祭り騒ぎをぶち上げるのだ. 未熟な教祖は,マスコミを相手に戦う愚を犯す….                 結局,その未熟さゆえに,マスコミに尻尾を捕まれて振り回されて慌てふためく. そこで必然的に訪れてくる使命感の喪失を自覚して,素直になれば幾らでも出直しが 可能なのだが,尊大さと傲慢さがそれを許さない.                 多くの教団が,物欲にまみれた挙げ句,この世に楽園を築こうとする過ちを犯す. この世で大きな存在になろうと,商人のように,資金集めと組織の拡大を目指して, 進化から遠く,退化と滅亡に近い道を選んで行く.                 例えば,マスコミが真実を伝える使命を,本当に担っているとしたら,警察発表を 『明らかになった事実』として,大々的に報道する姿勢が正しいと言えるだろうか? 冤罪だとする情報があれば同列に扱うべきだろう.                 マスコミが,本当に公正な報道をしていれば,いかに情報が錯綜していようとも, そこに混乱は起こらない.公正さを保つとは,軽はずみに断定報道をしないことだ. いかに情報が錯綜しても全て選択肢とすればいい.                 無実である可能性,有罪である可能性,それぞれの理由と根拠を素直に伝えれば, それだけでマスコミの使命は十分果たせる筈だ.マスコミの主張に都合の悪い情報を 混乱していたと言う理由で消し去られては堪らぬ.                 マスコミが,今後も重大犯罪に関連して,常時,警察発表だけを真実として伝える 報道姿勢を崩さない限り,重大な冤罪事件の続発に繋がる危険が潜んでいる.実際, 今も俺様が問題にする二つの事件が進行中である.                 マスコミが真に公平な報道姿勢を貫く覚悟があるのなら,過激派,市民団体,更に 警察と同じ比率で,情報を扱うべきではないか.ほんの一言,捜査関係者が漏らした 言葉だけを『新たな事実』だと拍車を掛けるのか?                 これからも警察発表の矛盾を,情報の混乱だと一蹴して片棒を担ぐ姿勢を崩さない マスコミ報道に信頼を持ち続けることは難しい.然し,日常的に受ける情報の多くは 彼らからのものに依存せざるを得ないのが現状だ.                 人間にとって,情報は一種の食物である.三度の食事をとるように,様々な形態の 情報を摂取している.それなしには,事実上,生きられない.今はテレビも,多くの 情報源の中の一つに過ぎない多彩な時代になった.                 もし人間が,自らの使命感に目覚め,そこから遠ざからぬように,意識的な努力を 忘れなければ,自分が受け取る情報の中に隠された矛盾にも敏感になり、マスコミが 自らの使命を喪失している状況も手に取れるのだ.1998/03/27                                   ** 悪魔 **       ・目次に戻る