習慣的な行動範囲を超える意味

習慣的な行動範囲を超える意味

 最近,新たに宮崎勤事件について書かれた本を発見した.驚いたのは,その内容が 事件について様々な疑問を呈示する視点で書かれていることである.俺様以外にも, 事件に関して少ないからぬ疑問を持つ人物がいた.                 この事実は,大変興味深い.例えば,新聞雑誌,テレビでは,そういう視点でから 事件が語られることはない.一つの事件について,横並びで一つの見方しかしない. 一社一局だけが冤罪説を主張することはないのだ.                 何故.そういう仕組みになっているのかは知らない.彼らは前後に矛盾する報道を 流しても,決して理由を明かさない.それに接する大衆も,結局,最後の報道だけが 正しいと判断しても差し支えないと信頼している.                 伝えられる情報に疑いを持つゆとりはないのだ.事件の様々な情報を,素材として 捉えるのではなく,出来合いのおかずとして,そのまま食卓に並べて食べることが, 時間の節約になり,作る手間も要らないと考える.                 然し,出来合いの食品には,大量生産に伴って,様々な有害とされる食品添加物に 汚染されている.それらの添加物によって,現代人は,長生き出来ないようにされて 少なくとも年金受給前に死ぬよう仕組まれている.                 マスコミ報道を鵜のみにして,そのまま受け入れていると,素材からは,絶対的に 出来る筈のない結果との矛盾を潜在的に感じてガタガタな精神にされてしまうのだ. 情報は食糧と同じで,吟味して受け入れるべきだ.                 最近の人間が長生きするようになったとは言っても,それは当然だが,中年以降の 人間について言えるだけである.昔にはなかった新たな情報という栄養に遭遇して, 彼らの肉体は活性化した.『情報は食糧』なのだ.                 但し,その食糧には,様々な矛盾があって,無批判に受け入れると,整理・統合が 出来ずに頭の中に空洞を作ってしまう.矛盾に満ちた情報を,正しいと錯覚したまま 受け入れ続けると,痴呆症への近道を歩み始める.                 勿論,俺様は医者でも学者でもない.だから,ここに展開する論理を信ずる根拠は 何処にもない.ただ,よくよく考えてみるがいい.痴呆とは,現実と行動の間にある 論理的矛盾に気付かぬことで,現代人は皆そうだ.                 テレビのない時代は,人々の生活は,自分の周囲の現実と,密接な接点があって, それが希薄になることは考えられなかった.現代は家の近くで何があったかも知らず 一度も行ったことのない場所の事件を話題にする.                 自分の家の窓の外で何が起きているかを見ようともせず,同じ大きさの幻の映像を 食い入るように見つめる.人の心に入り込んで定着する情報量には限りがある.もし テレビに心を奪われれば,現実との接点は薄らぐ.                 それがために同じ一家の家族ですら,共通の現実を持たなくなる.それぞれが違う テレビ番組を見ながら時間を過ごすことが当たり前の時代である.テレビばかりみて 現実との接点を希薄にすると,痴呆への道は近い.                 事件は遠い世界の出来事である点で,深く考えることもなく,テレビが語っている 事実を受け入れる.その方が面白い.警察のでっち上げ事件よりも,好青年の猟奇的 殺人,幼い十四歳の首斬り事件の方が面白いのだ.                 ここで話を元に戻すと,俺様が手に入れた本のタイトルは『宮崎勤事件 夢の中』 「彼はどこへゆくのか」という副題が付いている現代人文社刊2857円の税別である. 冤罪説とは言い難いが,様々な疑問が指摘される.                 このような本は,結局,丹念に書店巡りをして,偶発的な確率の中で遭遇する以外 その存在を知る方法がない.画一的な情報を流すマスコミが,総ての隠された情報を 伝えてくれる訳ではない.それはごく一部なのだ.                 例えば,今,宮崎勤が無実であったとされても,果たしてそれをどれだけの人間が その事実を受け入れるか? 新しい事実を受け入れるより,連続幼女殺人犯としての 宮崎勤を信じ続けたいのが,多くの大衆の現実だ.                 現実との接点が何一つ無い,幻の世界を信じ続けたいのが,痴呆症の特徴である. マスコミも大衆を痴呆症患者と心得て,画一的な皆,同じ情報を流して安心させる. 真実はマスコミの主張を切り捨てて初めて見える.                 無味乾燥とした宛もない現実の荒野を行く心境をもって,真実の世界を見る覚悟が 必要である.一晩外に放置した後,自宅に持ち帰ってジャブジャブ洗い,更に翌朝, 正門前に展示したという首から大量に血が流れた.                 マスコミは,血染めの現場を映像として紹介した.そして後日,少年の行動として 首がそのように運ばれたことを平然と伝えて何の矛盾も導き出さない.そして14歳の 少年が犯人だと,徹底して主張を続けたのである.                 素材として流された情報から『A少年が犯人』とする商品は作れない.マスコミの 主張は何処も変わらない.流された素材となる情報も変わらない.主張は,素材から 作られたものではなく,何処かで別個に作られた.                 要するに,A少年が犯人というのは,偽ブランドなのである.素材と商品を比べて 両者が一致しないことは,一目瞭然だが,現実離れしたマスコミの主張に慣らされた 大衆は痴呆化戦略に乗せられて気づくこともない.                 宮崎勤事件も神戸首斬り事件も,素材だけを厳密に見てゆくと,犯人とされた者に 到達しない.然し,マスコミ報道に幾らしがみついて,そのご託宣を聞こうとしても 素材と商品の違いが明かされることは有り得ない.                 偽ブランドを流通させるマスコミに対抗する力は必然的に微弱である.いかにして それをキャッチするか? マスコミの伝える情報は,実は,極めて少ない.彼らは, 無限の中から,一部を取り出して繰り返し伝える.                 その外側では,無限の事件が起きている.例えば,株売買に関係する重要な情報は マスコミ発表にしがみついても遅い.彼らがキャッチしない情報こそが莫大な利益に 繋がる.そこでは,マスコミは希薄な存在である.                 マスコミの主張を離れたところから,ものを考える習慣を忘れると,現実離れした 幻を真実だと固く信じる痴呆症に陥る.そういう俺様自身が,必要以上にマスコミの 報道に神経をとがらせる.愚かなこだわりである.                 一部の心ある人々は,マスコミの主張など,初めから何も期待していない.ただ, 安上がりな娯楽とするか,情報の素材として捉えるだけである.評価判断は,自分の 責任で行う.マスコミは主張すべき立場にはない.                 新たに宮崎勤事件に関する本を発見したことで,ふと気がつけば,マスコミ情報に 翻弄されている俺様自身の姿が見えて来た.習慣に溺れず,行ったことのない書店に 積極的に足を運ぶ行動力が新たな情報の鍵になる.                 同じ場所の書店に通っても,流通経路の関係で,そこでは絶対に手に入らぬ情報が 抜け落ちる.広く世間を知るには,マスコミの伝えていることが,世間の極く一部の 出来事に過ぎないことを心得ておくことも必要だ.                         ** 悪魔 **       ・目次に戻る