俺様流『言論の自由』

俺様流『言論の自由』

 例えば,閣僚が過去の日本の行動に対して,これに肯定的な発言をすると,結果は 辞職が待っている.自由な発言を積極的に規制し,厳重な処分の対象になっている. 言論の自由の行使には,決死の覚悟と勇気が必要である.              どのような圧政の時代にあっても,この覚悟と勇気さえあれば言論は自由である. つまり,日本は言論には,圧政の国なのである.他人の言論を尊重する気配はない. 攻撃する風潮があるばかりである.                        一般の国民にしても,果たして会社の中で,どれだけ自由にものが言えるのか?  自由にものが言えるのは,ワンマン社長くらいなもので,大半の人間が,上の顔色を 伺って,とても自由に発言などは出来ない.                    この背後には,人間の感情が反射神経に連動している構造的な弱点が絡んでいる. 一つの言葉が受ける側の喜怒哀楽の感情を刺激し,制御できない行動に駆り立てる. 未熟な能力のまま生きる人間の実体がある.                    一つの進化の可能性として,受ける言葉に,免疫反応を持たせる構造を作り上げる 必要を感じる.様々な言葉が自分に向かって投げかけられる中で,無意味に怒り狂う 反射的な行動は,進化とは無縁の存在である実態を象徴する.            然し,他人の言葉が,安易な行動を起こさせない訓練体系が存在しないのである. 低俗な漫才にバカ笑いして,自分への侮辱的発言には瞬間的に怒りをあらわにする. 他人の言葉が自分の中に入り込んで勝手な反応を起こす.              これが,カッとして相手を殺してしまうなどの,決して望んでもいなかった結果を 引き出してしまう.文明社会には,必然的に多くなる犯罪形態だと俺様は確信する. それは,個人が皆,偉い人になっているからである.                基本的人権と称する最低レベルで,個人は,他の人間から尊重されて当然とされる 無条件の特権が与えられてしまう.自らの未熟さを自覚し,最低レベルから進化する 人間としての教育システムが存在しない.                     つまり,自分の未熟さを自分で認識させられる教育システムが存在しない.子供の 未熟さまでが,子供の人権と称せられる始末である.大人も子供と同じ感情レベルで 教育の仕方も分らない.                             従って,人間の反応が極めて動物的なまま,自らを尊重される存在だと思い込む. 然し,感情の教育ゼロのままであるから,反応は常に動物の域を出ない.尊重される 期待とは裏腹な状態に置かれると無条件に怒りを発する.              侮辱的な言葉を浴びせられれば,怒るのが当然だとする,怒りと言う未熟な反応を 権利にまで引き上げているのが文明社会である.こういう現状では,本質的な人間の 進化は実現されない.                              いかに社会的地位が高くとも言葉からの反応が子供の時代からほとんど進化せず, 判断の基準も極めて自己中心的で客観的な判断が不可能である.政治家は,個人的な 利益で公の利益の配分を決めてしまう.                      言論の自由に象徴される民主主義が育つには,人間が健全に進化するメカニズムが 社会に厳然と存在しなければならない.幼児が民主主義を扱えば,それは形ばかりで 何一つまともに機能するものはなくなる.                     感情的には,完璧に子供のまま大人になり,更には,高い社会的地位に就く奇妙な 現実が,まともな言葉のやりとりを不可能にしている.言ってみれば,子供に玩具を 与えるがごとき個人的利益の供与が言葉の代用になる.               利益の発生しない一般的な情報については,それをどう判断していいのか,理解が 出来ない.マスコミは情報を伝えるだけでなく,それをどう判断,解釈するのかを, 定義づけて流す.国民は判断力を失う.                      判断力が脳死状態にある庶民を操るのがマスコミである.基本的にマスコミには, 独自の判断を示す自由はない.起きている事実を示すだけでいい.判断は千差万別で 一つの判断だけを絶対視させるやり方は言論封鎖にも等しい.            マスコミは,これを称して『言論の自由』と言うのである.何をどう判断するかは 立場によって違う.自らの主張だけを展開するやり方は『言論の独占』でしかない. 一方通行のマスコミだけに,これは悪質である.                  例えば,マスコミが事実を伝えるだけの本来の報道に徹しておれば,少なくとも, 銃撃を受ける原因を作るとは考えられない.意図的に特定の思想を国民に植え付け, 浸透させる要素があるから,これに反発する行動を誘発する.            マスコミの報道はまた,常に過激にすることで,これを金儲けの道具にしている. だから,それが誤報であっても,訂正はあくまでも小さくし,その繰り返しはない. 同じニュースの繰り返しは無限であっても….                   生まれ落ちたときから,垂れ流しのマスコミ報道に接してきた世代には,もはや, 自分の考えで行動するパターンがない.流行しているものに付いて行く.この辺り, 『刷込み』と言う動物の反応に似ている.                     つまり,生れて間もない特定期間内に見たものを自分の親と認識する形態である. 判断は,すべてマスコミがやるものとの先入観が植え付けられてしまう.一つの物に 多くの若者が殺到する.個性のかけらもない.                   例えば,タマゴッチブームの現代である.個々の人間が純粋に自分の心に問うとき 本当にそんなものが欲しいのか? 多分,答は『それでも欲しい』が正解となる?  流行を追う習慣が,個々の判断力をなくしているからである.            次の新たなる流行が出現するまで,それがブームである限りは手に入るまで延々と 欲しがり続ける.ブームが去ると嘘のように忘れて行く.マスコミ漬け,CM漬けの 完璧な中毒である.                               流行は,また,ニュースに対する感想についても同じことが言える.視聴者自らが 考えなくていいように解説してくれる人間が登場する.多くのコメンテータと称する 作られた世論の売人である.                           多くの人間が得意になって大声で主張できることは,マスコミと同じ論調である. 特に,著名人の受け売りには安心感があるのだ.誰にも非難される恐れがないとの, 絶対的な安定の上でものが言える.                        建前の上で,言論の自由があるかのような錯覚があるのだが,基本的には,未熟な 他人の感情を刺激する恐れから,言論の自粛が庶民の知恵となっている.言論とは, それが自由である為には,客観的視野が必要である.                他人が何を言おうと,それはあくまでも発言者のもので,それが口や文字から外に 現れたとて,それが自分を傷つけるには,それを自分の内側に取り込む必要がある. 受け入れなければ人畜無害である.                        自分に対する評価も,自分が思うほどに,他人の評価は良くないのが実状である. 通常,それが聞こえて来ないだけのことである.聞いて,いちいち『侮辱である』と 怒り狂っていては身が持たぬ.                          他人の言葉は,決してナイフのように自分の体を突き刺すものではない.刺される 錯覚があるだげである.例えば『自分は馬鹿だ』と書くか,口に出してみるがいい. そこに何の感情も沸き立たない.                         足の裏や脇の下をくすぐられると,笑わずにはいられないが,自分でくすぐっても 一向にくすぐったくはない.くすぐられる時に,自分がくすぐっているのだと,強く 言い聞かせると笑い出すことから救われる.                    基本的に,自分の内側から出た言葉が自分を傷つけることはない.聞かれる言葉が 自分の内側から出たものだとすれば,怒りは起きない.この単純な論理にどれだけの 人間が気が付いているか?                            神という存在を想定するとき,人間がどんなに利口になったとて,誰も彼も進歩の かけらも見られない人間の域を出てはいない.その高い領域を目指すとき,人間は, 自分を最低レベルにいる存在であると認識できる.                 同じレベルにあって,神の意識レベルを目指そうとはしない愚かな人間から,例え どんな言動を投げかけられようと,自分が理性を失った行動に走る理由もないのだ. 然し,これが果たせる道は遠い.                         決心して,他人からの言葉に怒ることを意識してやめても,何処かで今まで以上に 怒りを爆発させる自分に気がついて呆然とする位が関の山である.長年,蓄積された 習慣は,単純な思い付きでは治らない.                      それが果たされるためには,未熟な段階にある自分を認識するところから始める. 世の中で最低の存在が自分であることを意識する.だからと言って卑屈になるのとは 少し違う.人間全般の未熟さに目覚めるに過ぎないからだ.             それは,他の人間が生涯にわたって気が付かぬことに目覚めることに他ならない. 人間として,本質的に最高位に立ったところで,尚,神の領域の入口にも立てない. そういう認識でものを考える.                          例えば,神は人間の言葉では決して傷つくことはない.愚かな人間からの一言で, 簡単に傷ついてしまっては,とても解脱の領域に達することは出来ない.傷つかない 領域に達して尚,入口すら見えては来ないのだ.                  自らの侮辱の汚名を晴らすべく,生涯を賭けたとて,未熟な人間世界からは一歩も 抜け出せないことは理解出来るだろうか? 自分の存在を,他の人間に認めさせても それは高い次元からは遠ざかることに等しい.                   ここで新たな『言論の自由』を定義するなら,いかなる非難中傷を受けようとも, 傷つかない自分を形成することである.自分自身を不死身にすれば,いかなる主張を 展開しようと何者をも恐れる必要がなくなる.                   つまり自らの未熟さを自覚する術を知った人間のみが,初めて言論が自由になる. 風の作用で簡単に波立った感情が,風から自由になることで,より高い目的に向かう 未知のエネルギーを発揮するパワーにもなる.** 悪魔 **          ・表紙に戻る