言論の自由とは暴力に死する覚悟である

言論の自由とは暴力に死する覚悟である

 十年前,朝日新聞阪神支局に目出し帽の男が侵入して,散弾銃で記者一人を殺傷し 他の一人に重傷を負わせたとされる事件が起きて未だ未解決であった.朝日新聞は, 見開きの2ページに広告も載せずに,この事件を特集していた.           おりしも,この日が『憲法記念日』と合致したところから,言論の自由に絡めて, こういう紙面になったのか? 然し,赤報隊を名乗った人間は,十年後の敵の紙面に 自分の主張が掲載されて面目躍如でもあろうか?                  例えば,マスコミが武力で襲われれば,言論の自由に対する弾圧であると,声高に 叫ぶ.『言いたいことがあれば投書しろ』という訳だが,事件が絡まなければ,まず 掲載されることはない.                             言論に狙われた者が,必ずしも言論で報復できる訳ではない.文章を書くことなど 思いも依らず,法的手段にも訴えられぬ人間は,最終的に暴力的手段に訴えることは 必然的な一面である.永遠に消えることはない.                  何も大袈裟に言論の自由云々するまでもなく,つまらぬ一言が命取りになる例は, 犯罪の大きな構成要件ですらある.取り立てて珍しいことではない.普遍的な動機の 一つに過ぎない.                                言論に対する暴力を,いくら徹底して非難しようと,それは絶対になくならない. むしろ,マスコミという巨大組織にあって,一方通行の言論に奉仕する者は,大きな 罪を犯していることでもある.                          言論に対する暴力的弾圧は,何をどうしようが決して壊滅も防止も出来ぬ.むしろ それは運命的な必然である.だから言論に携わる者は,いずれ暴力で滅び去る宿命を 自らの肝に銘ずることだ.                            防げぬ必然的な運命は,天の裁きと覚悟を決めて,その上で自らの主張を展開する 勇気を持てばよいのだ.言論に対する暴力を非難している暇と紙面があるのならば, 自らの心に,決死の覚悟を養うことに費やすべきである.              言論の自由とは,自らの決死の覚悟から生れる.舌先三寸の書きたい放題,机上で エリートのするお手軽な仕事ではない.生死を超越して自らを自由にして物を書く. これが真の言論の自由である.                         『言論の自由が暴力に脅かされた』と,声高に叫ぶ姿は,生への執着であり,未練に 過ぎず,見苦しいのである.そんなに恐いなら言論ごときに携わるんじゃないっ!  さっさと辞めてしまえっ!  ** 悪魔 **                 ・表紙に戻る