小説   教育

「こんな簡単な文字が読めないのか?」
 国語の教師が呆れたように言った.僕は,
迷った.黒板に書かれた文字が読み取れない
ことが自分でもよく分からなかった.これが
見えないことなのだ…とは….

「お前…,近眼じゃないのか? これ掛けて
みろよ」
 休み時間になって,友人が,自分の眼鏡を
外して僕に手渡した.見えないと言う自覚も
なく人の眼鏡にも抵抗があった.

「あの読み方は,お前が俺に教えたんだぞ?
本当は見えなかったんだろう?」
 そう言われて,書かれた文字は,確かに,
形がぼやけて分からなかったのだと気づき,
視力が落ちる意味を知った….

「見える! すごい…!」
 僕は,思わず叫んでいた.見える世界が,
突然一変した.その瞬間まで,僕は,視力が
落ちていると言う自覚が全然なかった.でも
こんなに悪くなっていた….

「ナニ? 眼鏡を掛けてぇ? やれやれ…,
なんてこってぇ.テメェは…,そんなに頭の
わりぃガキだったのか….尤も…俺様の血を
引いていたんじゃ,それも当然か….だが,
眼鏡を掛ける事は許さん!

 今日から,キサマは俺様の指示に従って,
しっかり視力の訓練をすること.それから,
つまんねぇ学校の勉強なんか一切やめろ」
 僕は,こんなバカな父親に相談したことを
後悔した.

 勉強をやめたら,中学浪人になってしまう
かも知れない….
「ムフフフ.愚か者めが…,何をうろたえて
おる.自分の言いたいことは何でもはっきり
口に出して言え.

 もし眼鏡がどうしても必要だと言うなら,
俺様を説得してみろ! 何でも聞いてやる.
眼鏡を掛けると何がどうなるか? お前は,
分かっておらん.その点で,世間も,眼科の
医者も同じだ」

「眼鏡を掛けることが,頭が悪いってことに
なるって…,おかしくない? 眼鏡を掛けた
友達は皆,成績がいいよ.勉強しなかったら
僕は落ちこぼれて,高校にも行けないし…,
友達も居なくなる…」

「その程度の認識しかねぇから近眼になんか
なっちまうんだよ.このクソガキめが…」
「その『クソガキ』って,やめてくんない?
僕には僕の人権ってものがあるんだから…」
僕は,精一杯の反抗を試みた….

「やかましいわいっ! 浅はかな認識能力で
イッチョマエの口,叩くんじゃねぇ! この
ク・ソ・ガ・キめが!」
「素直に聞いておきなさい」
 母親が脇から口を出した.

「お父さん…,何だか人が変わったみたい」
 こんなふうに父親と話したことは,今まで
なかった.何故か,この瞬間から,父親が,
全く別人のように思えた.これは,どういう
ことなんだろう….

「いいか! 今までのお前は,光に向かって
飛んでいただけの,ただの虫ケラだった….
自分の意思で,暗闇を飛ぶ努力を,全くして
来なかったクソガキだ! そういう自覚が,
お前にあるか?

 やれファミコン,スーパーファミコンだの
3DOだの…,光に引き寄せられて,自分の
意思を持たずに飛んでいただけだ! もし,
虫ケラではないと言い切るなら,自分の光で
闇を照らして歩まねばならん!

 落ちこぼれるって何だ? お前は,友達を
引き連れて生まれて来たのか? 必要なら,
落ちこぼれる必要だってあるのだ.そこから
自分の光を灯して,自分の力で歩み始めれば
それが生きた証になる.

 この世に生まれて来た経緯を考えてみろ.
キンタマに毛が生えてるお前だ.解るだろ?
お前の回りには,無数の仲間の精子がいた.
多くの仲間を振り切って,ただ一人,母親の
子宮に飛び込んだのだぞ?

 生まれる時も死ぬ時も,一人なのが生命の
形態だ.過去を切り捨てて飛び込んでこそ,
新しい世界が開かれる.これからのキサマに
必要なのは,新しい大人の論理だ.つまらぬ
学校教育にぶら下がっていてはいかん! 

 いいか! 悪い頭を使い過ぎると,肉体の
機能が衰えてしまうんだ.勉強で近くばかり
みていたから近眼になったなんて思うなよ.
お前は毎日,黒板を見ていた筈だ.だから,
基本的にみえなるなる筈はない.

 見えなくなるのは,満杯の脳みそからの,
処理しきれぬ情報の受入れ拒絶と言う意味が
隠されている….言ってみれば,人体特有の
防御反応なのだ! 今の眼科のクソ医者共に
この単純な理屈が解らんのだ.

 視力の低下がいい機会だ.取り敢えずは,
眼科で検査を受けて来い.どうせクソ医者は
眼鏡の処方箋を書く位だろう.然し…,他の
目の病気の心配もある.心配はねぇと思うが
一応念の為だ…」

「特別,目に異常はみられません.これは,
近視ですね,早速,眼鏡を作りましょう」
 眼科の医者は,父親の言った通りのことを
決まり文句のように繰り返した.
「あの….近視に治療法はないんですか?」

「目には,いつも正しい映像を与えないと,
正しい映像を忘れてしまうのです.ますます
視力が落ちてしまうのです.ともかく眼鏡を
作ることが先決なのです」
 治療の話は無視された….

 遠くから見た眼科の看板には「コンタクト
レンズ処方」の文字が添え書きしてあった.
眼鏡屋の下請け的な存在に過ぎなかった.
 眼鏡を勧めても,眼鏡を必要としなくなる
可能性には全然触れられなかった….

 だが,目に正しい映像を与えてやらないと
危険と言う言葉には,説得力を感じていた.
「俺様の若い頃の写真をみてみろ」
 父は,古いアルバムを出して来た.そこに
父の子供の頃からの写真が貼ってあった.

 中学三年生の写真で,父は,何故か眼鏡を
掛けていた.背広姿の写真でも,しっかりと
眼鏡を掛けていた.父はコンタクトレンズを
使っていたのか….そんなしぐさは,今まで
一度も見たことがなかった….

 それに父は,車を運転するが,その際にも
眼鏡は掛けていない.近視である素振りなど
一度も見せたことがなかった….
「免許証をみてみろ!」
「免許の条件等 眼鏡等」と記されている.

「お父さん! 近眼なの?」
「ああそうだ….だが,現実には,眼鏡など
必要としない.俺様は,大人になったずっと
後になって,視力の訓練を始めた.それでも
眼鏡から開放されたんだ」

「でも…,医者が言ってたよ.『目に正しい
映像を与えないと危険だ』って…」
「今回,お前の一番の収穫は,自分が近眼で
ある現実を知ったことだ.全ては,そこから
出発する.

 目が正しい映像を必要とするならば,目の
機能自体が正しい映像をみせてくれることを
知らなければいけない.お前は,人の眼鏡を
掛けるまで,自分の目か悪くなっているとは
気がつかなかっただろう?

 それは,自然に正しい映像を見ていた瞬間
もあったことを意味するのだ.ともかく…,
お前は自分の目が近眼であると気がついた.
これからは,見るもの全てがぼやけて見える
必要がある.

 だから目を細めたり,力を入れてみようと
してはいけない.ぼやけた映像を素直にみる
ようにするのだ.すると…ぼやけている中に
ある瞬間,すっきり見える瞬間に気がつく.
それが正しい映像をみる瞬間だ.

 これは眼鏡を外して,素直にぼんやりした
世界に適応する自然な心掛けの中で,起きる
現象である.一度,体験すれば,自分自身に
正しい映像をみさせる能力があると,自信を
持つようになるだろう….

 例えば,この窓から,読み取れない看板を
探してみろ.その文字を標的に,毎日それを
眺めるようにしてみろ.必ずや,その文字が
読める瞬間がやって来る.眼鏡に頼るなら,
そんな瞬間は絶対に訪れない」

 窓の外に展開される景色は,眼鏡を掛けた
世界とは違って,妙にまぶしく霞んでいた.
ふと眼科の看板を見た自分が思い出された.
あの距離で,あの文字は読めない筈だった.
でも僕は,それを読んだ….

「お父さん…それ…あったよ! 僕ちょっと
確かめて来る…」
 僕は,衝動的にあの眼科に向かっていた.
その看板の文字を読み取った位置まで来て,
改めて見ると….

 大きく書かれた,眼科の名前さえ,よくは
見えなかった.ましてや,その下に書かれた
小さな文字など,読み取れる筈もなかった.
医者でもない父親の言葉だったが,真実味が
感じられた.

 視力回復訓練のために,父は,誠に意外な
道具を用意した.それはエアーガンだった.
「いいか! これから,俺様が射撃の基本を
教えるから,それに忠実に守って,しっかり
練習するように」

 射撃の基本は,標的と照星と照門の3点を
一致させ,それを持続させながら引金を引く
ところにある.その連続した視点の移動が,
近くと遠くを,交互にみて,全体を把握する
目の機能を最大限に引き出す….

 更には,呼吸を整えて3点一致の瞬間に,
闇夜に霜の降るがごとく引金を引き続ける.
この動作が,無駄な緊張を解きほぐす手段に
繋がると言う.発射の瞬間,照星と照門が,
どの位置にあるかを見極める.

 エアーガンの性能では,弾丸のバラツキが
酷すぎるが,3mの距離から一点を狙って,
それを小さくする.玉を発射するのは,よく
見えぬ状態では,3点の確認もよく出来ない
可能性があるからだと言う.

 3点がよく見えるようになったら,弾丸が
発射出来ないモデルガンでの,空撃ちだけで
3点一致の瞬間だけを正確に記憶する訓練を
行うのだそうな.同時に拳銃の取扱い方法も
学ぶのだと言う.

 人生の目標を達成するために,その目標に
対して絶対服従の姿勢を保つ必要があって,
その為に,人生の一時期を,他から受け取る
命令に絶対服従の精神を貫く体験が必要で,
今がその時期なのだという….

「バカヤロウ! そんな構え方じゃテメェが
殺されるぞ.標的にモロに体を晒す構え方を
するんじゃねぇ.体は,標的に対して真横に
向けて,顔を標的に向けて狙うんだ」
『最初から教えればいいのに…』

「何も考えずに,行動する愚かさが目を悪く
するんだよ.このバカヤロウっ!」
「別に僕は人と本当の殺し合いをする訳じゃ
ないんだから…」
「やるかも知れんのだっ!」

「時に今まで発揮したこともないパターンで
突っ走ることが必要な場合もある.人を殺す
覚悟で標的を見て,命中させなければ自分が
やられるつもりで狙うんだ.意気込みだけで
競争は勝てる.

 いいか! 衰えた視力を取り戻すのだとは
思うな.衰えているのは,脳の機能であると
知れ.弱った脳を使って,幾ら勉強しても,
知恵には昇華しない.お前は,絶対的に頭が
悪いのだっ! 目ではないっ!

 眼鏡を掛けて得られる視力と,同じ視力の
裸眼では,歴然とした違いがある.眼鏡が,
正しい視力を取り戻すことには繋がらない.
それは,あくまでも架空の世界を見ているに
過ぎない….

 あんなガラス玉だけで,世界を見ていると
重大な情報がこぼれ落ちたまゝ,これからの
長い人生を送らねばならなくなる.いいか!
近眼は,重大な脳の病気だと知れっ! 幾ら
勉強しても,バカは治らんっ!

 数学に強いとされるインド人のエリートの
中には,近眼の人間がいない現実すらある.
優秀な人間は,自分の肉体を健全に保って,
優秀な能力を発揮するものだ.眼鏡を掛けた
エリート社会は滅亡寸前の世界だ.

 一体,この父ってどんな存在なんだろ? 
小さい頃から,余り家にはいなかったし….
一応,小さな会社の社長ではあるようだが,
僕は,その詳しい仕事の内容については全く
知らない.

 母親は,どうしてこんなに父に礼儀正しく
なれるのかと思われる程の従順ぶりだし….
本当に今時,こんな母親…と言うより,妻が
いることが不思議な位だった.今まで,僕は
自由だったのに,急に….

 それまで滅多に家にいたことがない父親が
僕が近眼になってから,いつも家にいる….
 それまで,特別な怖さは感じなかったが,
その態度とは裏腹に妙に目つきの鋭さに怖さ
が感じられたことはあった.

 父親の言葉の中には,反論を許さぬ響きが
あって,僕はそんな父親の前で言葉を失って
しまう.怖くて口がきけない訳ではない….
父親の言葉を覆す理屈が思いつかぬままに,
納得させられていたのだ.

「キミは又,宿題を忘れたのか?」
「いいえ.目と頭の健康のために,つまらぬ
勉強をしなかっただけです.勉強は,耳から
入る情報に頼って行なうようにしています」
僕は反抗的な生徒になっていた.

「そういう傲慢な態度は許せません.廊下に
出て立っていなさい」
 父親の指示に従って行動していたら,僕の
学校での立場は,どんどん悪くなって来た.
親が呼びつけられた….

 それでも,親の指示に従っている僕には,
それは恐れではなかった….父と学校の間で
どんな話し合いがなされたのか….僕には,
詳しいことが解らない.それ以後,何故か,
先生はおとなしくなった.

 ある意味では寛大になったのだった.僕に
対してだけではなく,全般に,宿題について
細かい事を言わなくなっていた.親しかった
友人たちも,何故か近寄ろうとしなくなって
いた.どうしてなのか….

 父に言わせれば,新しい世界に入るために
古い世界が必然的に捨てられるから,それで
いいのだという.本当に,その言葉を信じて
いいのかどうか….でも,他にとるべき道は
なかった….

 僅かな期間で,僕の視力は確かに変わって
きた,見えなかった黒板の文字も,今では,
不自由なく読めるように変化して来ていた.
回りの友人が,次々に眼鏡を掛けたり,度を
強くして行くと言うのに….

『俺様』が,いわゆる安物大衆車に乗って,
見るからに,中小企業のオヤジになり切って
屈託のない顔をして,作業着姿で出掛ける.
町から離れた人通りのない場所に,一軒家が
あった.

 更に車を進めて行くと,そこにピカピカの
ベンツが見えてきた.『俺様』の車が入ると
既に数人の男が出て整列した.厳い雰囲気を
持った,マトモな社会では,見かけぬ風体の
男たちである.

 さっとドアを開けて出迎える姿勢も,妙に
ものものしい.
「やれやれ….堅気サンの姿には,すっかり
疲れちまったわい」
「ご苦労様で…早速お召しかえを…」

「おう! ところで…変わりはねぇか?」
「実は…,お坊っちゃまの学校の担任から,
『社長にくれぐれも宜しく』との事で…」
「僅かな金のことで義理堅い事よのぉ」
「誠に…」「ガハハハハ」

 再び,家から出てきた『俺様』は,先程と
同じ人物とは,想像も出来ぬ完璧な暗黒街が
似合う男になっていた.
「あの子伜が,跡目を継ぐに相応しい成長が
出来るかどうか…」

「上に立つ器でなきゃあ,現場で働いて貰う
しかねぇ.取り敢えず,フィリピンでの射撃
訓練を予定を組んでおけ.ヤロウの夏休みに
体験させておきてぇからな」
「そこまでお仕込みなさるんで?」

 ベンツの後部座席に収まった『俺様』は,
前後を車に護られながら事務所に向かった.
彼らが,単純にヤクザ組織であるとするには
疑問が残る.或いは,そう思わせることが,
隠れ蓑になった組織かも知れぬ.(終わり)
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