小説   替え玉

 ここは幼児連続殺害事件の捜査本部にある
取調室である.意外な人物が,容疑者として
捕らえられていた.主任の野村は,逮捕した
男を前に頭を抱え込んだ.どちらが容疑者か
解らぬ光景であった.

「やれやれ….よりによってウチの捜査員が
犯人だったとは….大体やり過ぎたんだよ.
テメェってヤツは….遺体を焼却した挙句,
その骨を遺族宅に届けるなんて….すぐに,
解っちまったんだよ」

「警察の目にビクついている犯罪者にそんな
ことが出来るかぁ? 警察内部の情報を知る
人間にしか出来ねぇ状況だろうが….警察の
中にいるお前には,それが見えなかった….
マスコミが疑わねぇのは奇跡だぜ」

 突然,犯人,桑田の口許が緩みはじめた.
「申し訳ございません.いつかはこんな日が
来ると,ずっと覚悟して来ました….多分,
マスコミは関東の警察不祥事件の代表として
私の名を全国に報道する…」

 野村はブルブル震える拳を抑えて,必死に
怒りに耐えていた.これから先,一体,何が
どうなるのか….無間地獄が警察全体を襲う
明らかな現実から,目を逸らしたかった….
何も知らない自分でありたかった.

 何度も接触して来た,遺族関係者の恨みの
視線が見えるようだった.マスコミ報道は,
それでも他に騒ぎが起きればすぐに消える.
だが,遺族の怨念は,生涯続く….それは,
消えぬ傷となって自分の心にも残る.

「フザケンジャネェ! バッキャアロォ!」
 突然,怒りが爆発した野村は犯人の桑田を
思いきり足蹴にしていた.意識されぬ衝動が
突然,手から足に方向を変えて,高圧電流の
ように流れた….

 バラバラになった椅子と共に,壁際にまで
ふっ飛ばされた桑田は,ただただ体を縮める
ばかりであった.期待されていた捜査員も,
今はただ,小心で臆病な救い難い社会の屑に
過ぎなかった….

 この事態を打開する方法はないものか….
このまま,世間に公表するには,あまりにも
過酷な現実である.桑田を懲戒免職にして,
経歴の一切を伏せ,無職男とする….然し,
すぐにばれてしまう….

 取り調べの段階で明らかになった事だが,
桑田が遺族に遺骨を届けようと考えたのは,
捜査員として事情聴取をする過程で,遺族の
嘆き悲しむ姿に,己れの罪の深さに目覚めた
ことによるものだった.

 県警本部に呼ばれた野村は,そこで意外な
指示を受けた.
「どういう事ですか? 身代わりって…」
「つまり…別の人間を犯人に仕立て上げる」
 本部長の藤田は冷やかに言い切った.

「別件で捕らえた容疑者を確保している….
先ず,この容疑者の生活背景を犯人像として
マスコミに流す.」
「一体…何をやった人間ですか?」
「宮アと言う男で,幼児への猥褻容疑だ」

「地理的に,事件の行動半径の中に居られる
環境が整っている.それに,強力な後ろ楯も
いない.彼を犯人に仕立て上げればいい」
「然し…そんな軽い容疑者を,いきなり連続
殺人犯とは…」

「大丈夫,対策は万全だ! お前は徹底して
犯行の詳細を桑田から聞き出せ.その状況を
そのまゝ宮アに当てはめて証拠固めをする.
これに依って犯人以外には知り得ない供述が
確保出来る.フッフフフフ」

 藤田は,冷酷な笑いを浮かべて野村の肩を
叩いた.うまく行くかも知れない….藤田は
思わず同意した自分に驚いてもいた….が,
これは,現代に冤罪を作り上げる前代未聞の
犯罪を侵すことでもある….

 野村には,二重の苦しみであった.部下が
事件の真犯人であった上に,今度は,替え玉
工作とは….
「然し,公判で宮アが何を喋るか心配で….
やっぱり,無理があるのでは?」

「案ずるな! 手はあるだろ?」
 藤田は自信たっぷりだった.
「宮アを徹底して催眠術に掛けろ! お前の
得意な技術だろ?」
「相手にもよりますが…」

 学生時代に習い覚えた催眠術は,取調べの
経験の中で磨きが掛かった事も確かである.
だがこれをでっち上げに使おうとは….
「それよりも証拠固めは大丈夫だろうな?」
藤田の決意は固かった….

「いいか! 証拠第一主義の世界だ.桑田の
全面自供から得られた証拠をそっくり宮アに
振り替える−−これは完璧だ.誰もここまで
疑う人間はいない」
 藤田の言葉を聞いて野村は覚悟を決めた.

 マスコミに流す具体的な犯人像が,宮アの
生活背景に置き換えられて作り上げられた.
印刷関係の仕事.コンピュータ・ワープロの
知識があり,変質的傾向がある.無口な上,
人付き合いもない人間−−

 犯人像は首尾よくマスコミに流れ,更に,
著名人や評論家の推測が加わり,真犯人とは
かなり違う犯人像の絞り込みにひと役買って
くれていた.FBI流のプロファイリングが
マスコミの手でなされていた….

 後は宮アを桑田の身代わりに真犯人として
発表するチャンスを待つだけ….差し当たり
重要参考人として思わぬ無実の証拠に備える
必要もある….どうしても…最後まで一抹の
不安は残った….

 テレビに流れた,犯人逮捕の報道が見せる
映像は完璧であった.地方新聞社の看板に,
ハイテク印刷機器の映像….これは,正しく
事前に流された,犯人の生活背景そのもので
あった.野村はその結果に安堵した.

 この瞬間から宮アのイメージは,自動的に
犯罪史上,類例のない冷酷非道な幼児殺人犯
として独り歩きを始めた.テレビに写される
群衆の目は,真犯人を見る目だった.野村は
思わずニヤリとした.

 強力な催眠の影響で,宮アの動きは緩慢で
あった.現場検証−−それはマスコミをして
宮アを真犯人として,更に強力に報道させる
見せ場作りでもあった.顔も隠さず,平然と
現場を連れ廻されていた.

 野村は,そのニュースの映像を見た瞬間,
戦慄を覚えた.これではバレるっ! こんな
真犯人はいない….捜査員が,耳元で囁いた
『オイ! 右の方を指差せ!』との指示が,
聞こえるようだった.

 捜査員は指示するだけで,宮アが指差した
方を見るゆとりをなくしていた….早く手を
打たねばなるまい! 野村は焦りを感じた.
もう最後までやるしかないのだ.次第に鬼に
なってゆく自分を感じた.

 まるで,夢の中で犯行を重ねていたような
気がする−−犯人の供述として,報道された
その言葉は,そのまゝ,野村自身の心情でも
あった….自分は桑田と共に幼児連続殺人を
犯しているかのようだった.

 マスコミの反応は甘かった.宮アの言葉は
人間的な感情を持ち合わせていない,冷酷な
人間の言動とされ,夢遊病者のような動きは
全く反省もない冷徹さとされていた.ホッと
する自分もワルである….

 心ある者が,あの映像をみれば,明らかに
後催眠による後遺症と見破るだろう.安心は
出来ないのだ.最終計画を急ぐ必要がある.
それが完了すれば,事件は裁判を待つことも
なく終結する….

 然し,宮アも催眠の世界から現実の自分の
本当の姿に目覚めることが多くなっていた.
作成された調書の内容に異議を差し挟んだ.
目醒めた状態から指示を行う後催眠の効果も
薄れている.

 徹底して締め上げて本当の事を言ったら,
嫌でもこういう目に遇うと体で教え込むしか
なかった.
「いいか! お前は,子供を容赦なく何人も
殺した極悪人だ! いいな!」

 最終決着の第一段階を,現場検証の名目で
実施した.現場検証の前に,宮アのコメント
『被害者には申し訳ない事をした』これを,
マスコミに報道した.さり気なく、左手首に
包帯をする工作も忘れなかった.

 前回の顔を隠さない犯人の不自然な行動を
修正して上着で顔を覆わせた.だが,映像は
やはり不自然だった.顔は覆っているものの
宮アは,手をかざして,上着を日除けにして
いるような恰好をしていた.

 恥ずかしさから,しっかり上着を抑え込む
自然さが全くなかった.仕方なしの演技….
そういう態度に見えた….これはまずい….
やはり…,作り物ではこうなってしまう….
野村は頭を抱える….

 が,史上まれにみる極悪非道な幼児殺人犯
としてマスコミが伝える宮アの扱いには全く
ゆらぎがなかった.映画監督が微妙に感じる
致命的失敗も,俳優への先入観が幸いして,
ボロが打ち消されている.

 計画が綿密に練られ,表向き,現場検証の
形態を取ってそれは実行に移された.完璧を
期するため万一に備えて,ライフル銃が一丁
トランクに用意された.宮アには深く強力な
後催眠が掛けられた.

「GO!」と声を掛けられた瞬間,宮アは,
車から飛び出して全力で走り出すようにとの
暗示が彼の心に植え付けられた.うまく罠に
嵌まってくれれば大成功である….これで,
事件は決着する….

 通常なら,両脇を捜査員で固めて真ん中に
容疑者を乗せる習慣を破って,宮ア自身が,
行動し易いようにドア側に座らせた.野村は
注意深く報道陣のカメラの位置に注意した.
予め指示した場所に配置されている.

 跳弾に依る第三者への被害の可能性もなく
射殺には最適の場所だった.野村は捜査員の
一人に合図すると,宮アに声を掛けた.
「よし! 宮ア.時間を計るから,今から,
あの場所まで全力で走って見ろ」

 同時に前にいた捜査員がさり気なく背広の
ボタンを外して,ほんの少し左側を開いた.
彼は署内切っての拳銃射撃のエキスパートで
ある.左脇の下には,ニューナンブが光って
いた….車内に緊張が走る….

「どうした宮ア.現場検証なんだぞ.素直に
協力すれば,罪だって軽くなるゾ」
 だが宮アは体を硬直させて動かなかった.
やはり…後催眠の暗示に頼るしかないか….
野村は覚悟を決めた….

「おいおい.どうした.リラックスしろよ.
どれ…深呼吸してみよう….この緑を見ろ.
鉄格子の中では味わえない世界だろうが…」
だが,宮アの表情はあまり緩まなかった….
こやつ….気づいているのか?

「ほ〜ら.こうやってリラックスしてみろ」
 野村は自分で深呼吸をして見せた.
「やれやれ….おい! お前達もリラックス
して深呼吸だ」
 緊張が解け,宮アの表情も少し和らいだ.

「GO!」
 突然,野村が声を発した.ビクンと宮アの
手がドアに掛かった….が,考え込むような
表情が浮かんだ.宮アは,意に反して自分に
沸き上がる衝動を必死に抑えている.抵抗が
あるのか? 

「宮ア! GO! GO!」
「宮ア! 降りるんだ! 降りて走れ!」
 カッと目を見開き,ブルブル震える手で,
宮アは必死に堪えていた.あと一歩….その
様子を見て野村は焦った….

「逃げないと死ぬぞ…」
 耳元に低い声で囁いた.一瞬,ノブに力が
入った.だが宮アは死を覚悟したかのように
ドアから手を離して身を縮めた….
「クソッ!」野村は舌打ちをした….

 作戦は失敗に終わった.結局,誰も車から
降りずに署に引き返した.現場検証としては
異例なやり方ではあった.冷静に考えれば,
捜査員が宮アを外に誘導すべく先に降りて,
促すのが自然であった….

「こうなったら…やっぱり,署内で片づける
しかありません.カメラに印象づけた,あの
包帯が,宮アが自殺を図った連想に繋がり,
再び自殺を決行したとしても,マスコミは,
十分に納得しますよ」

「マズい! 今はマズい.何か重大な宮アの
無実の証拠がマスコミに流れたらしい…」 
 藤田は,今まで取っていた強硬姿勢から,
一転して慎重になった….
「今はおとなしくしているんだ」

「一体…何が….まさか桑田の事がバレたの
では…?」
「……」
 藤田の口は固く閉ざされていた.上層部に
何らかの情報が入っているらしいのだが….

 これを裏付けるかのようにマスコミ二社が
相次いで,犯罪事件について容疑者段階での
実名呼び捨て報道を中止する,極めて異例な
発表を行った.バカ騒ぎの好きなマスコミが
どうしたんだ….

 どんなに社会から叩かれてさえ反省なんて
積極的に行うなどは考えられないマスコミで
ある.この発表は一体何を意味するのか? 
宮アの無実が明らかになっては,報道姿勢を
厳しく問われることになる.

 ヤツラ…先回りして弁解の姿勢を取ったと
言うことなのか….
「いいか….記者会見は,当分…お預けだ.
今,こっちで対策を考えている.マスコミの
動きの真意が読めん…」

 藤田の言葉を聞いていた野村は,さすがに
後悔していた.桑田を,そのまま犯人として
発表するべきだった….少なくとも,自分が
当事者になることだけはなかった….然し,
今は自分が真犯人になる….

 その後,何故かこの事件の取材がぱったり
跡絶えて,この事件について報道が消えた.
県警本部とマスコミの間で裏工作が進行して
いるのだろうか….それにしても捜査本部が
つんぼ桟敷とは….

 マスコミも,事件の真相を発表するには,
時期的に自分達の報道姿勢を問われる点で,
ほとぼりを冷ます必要がある….警察もその
信頼を完全に失墜する.宮アが素直に暗示を
受けた通りに供述してくれれば….

「いいか! 宮ア! お前がやったことには
いささかの間違いはない! そうだな?」
 野村は,執拗に宮アに与えた暗示の効果を
確認していた.だが,宮アの反応が今までと
違っていた….

 遠くを見るように,暗示を受けた言葉を,
そのまま話すのとは違っていた.
「いいえ.やっと分かりました.私は人など
殺していません.誰かが罪を着せたのです」
宮アは野村の目を見据えていた.

 公判を間近に控えて、宮アの思いも掛けぬ
言葉に,思わず,たじろいだ野村であった.
「馬鹿野郎! 今更,シラを切ろうったって
そうはいかねぇんでぇ!」
負けられん.野村は自分に言い聞かせた.

 野村の軽い平手打ちで,宮アは,椅子から
転がり落ちた.こうなったら,自分の無実を
公判で訴えたらどんな痛い目に遭うかを体で
思い知らせておくしかない.然し,宮アから
恐れる素振りが消えている….

 逃亡を阻止する目的で,やむなく発砲−−
この筋書きを以て,射殺する作戦に失敗した
瞬間から宮アに対する暗示の効果が消えた.
危機に瀕したことで,防御反応として暗示の
効力が消えた….

 だが,如何に宮アが犯行を否認しようと,
がっちりと固めた物的証拠がある.これは,
誰にも曲げる事が出来ない.それでも自供が
伴わないところに不安が残る.判事に対する
心証の問題が残る.

 公判が型通りに進んで行った….
「何か言いたい事はありませんか.ここでは
何でも自由に話していいんですよ」
 判事が何か知っている….野村は,瞬間,
背筋に戦慄が走るのを覚えた.

「車を返して欲しいんです.運転免許証も,
書替える時期ですし,車は動かさないと油の
回りが悪くなりますから…」
 傍聴席にいる報道陣にはシラけた雰囲気が
漂う中で,野村は顔面蒼白になっていた.

『無実の罪から,さっさと釈放して欲しい』
 真相を知る野村なればこそ,宮アの答弁が
実は,無実の訴えであると痛い程分かった.
判事の目に鋭さが加わった.言葉の真意を,
推し量っているのだろうか….  END
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