正常に見えた時代を知らない

正常に見えた時代を知らない

 俺様が最初に近眼を意識したのは,偶然クラスメートの眼鏡を掛けた瞬間だった. それまでは,自分の視力が落ちていることに全く気がつかなかった.考えてみると, 俺様は,正常な視力を持っていた時代の記憶がないのである.            眼鏡を掛けた瞬間,そこに展開された鮮明な映像に驚愕した.つまり『自分が昔は このように見えていた』記憶が伴わないのである.それはさながら生れて初めて見た 鮮明な映像の世界だった.                            俺様の小学校6年生の通知票の視力の項目には,右1.2 左1.0と記されて, 正常な視力を保っていたことが明らかである.然し,正常だったはずの視力について 明確な記憶がないのである.                           比較のしようがない視覚能力について,自分が,どのようにものを見ているかを, 認識して記憶に留めることは難しい.生まれつき備わっている能力は,意識せずに, 自然に使っているだけで特別,意識することがない.                従って,その能力を常に正確に把握する習慣も生れない.つまり,普通の状態では 積極的に見るのではなく,単純に『見える』と言う受け身の状態でしかない.多少の 能力の衰えを自覚することも出来ない.                      もし今,自分の視力が正常であるなら,自分の目がどのようにものを見ているか? それを改めて意識して認識しておくことが,視力の衰えを防止する大きな力になる. 黒板の文字が完璧に見えなくなるまで放置することもない?             然し,世間では,いかなる理由によるものか,小学生ですら平然と眼鏡を掛ける. 中には,親子でペアルックにして,アクセサリー感覚で使用している者すら見かける 体たらくである.                                どうしても眼鏡が必要なケースも或いはあるのかも知れぬ.然し,単純な近視から 小学生に眼鏡を掛けさせる例も少なくない.積極的に自分の力でものを見ようとする 努力に目覚めさせられぬまま,眼鏡の虜になって行く.               このような現状では,幾ら正常な視力を観察しても,ほとんど意味がない.独力で 正常な視力に回復させる道筋をみいだす目的があっての視力観察である.悪くなれば すぐに眼鏡を掛けるだけなら観察の意味もない.                  視力が衰えて,人間は初めて自分の視覚能力に目覚める.そこで一歩踏み込んで, 今までの自分が,積極的にものを見ていたのではなく,生まれつきの能力で無意識に 見ていただけであることに目覚める.                       立身出世物語の中にも,貧困生活の中で,普通の人間以上に,富に執着する精神を 養って,遂には大金持ちになったという定番物語が溢れている.つまり,当たり前の 何不自由ない生活から一歩下がったところで推進力が働く….            俺様は,つまらぬ立身出世物語に何の関心もないが,そのメカニズムを視力回復に 応用が可能な共通点を引き出しただけである.つまり,普通より劣った視力があって 初めて,ものを見ることの何たるかに目覚める….                 様々な領域で,マイナスへの変化が,大きな推進力に変わる共通点があるのだが, 残念ながら,それを推進力として自覚する思考能力に目覚めることがなくなっている 現代社会である.                                  個々の人間が,子供の時代から権利なるものを振り回す時代になって,飢えとか, 逆境などのマイナスの世界から,独力で自らの世界を切り開く努力を忘れ去った…. マイナスをもたらした外界の要因を排斥して解決する.               いじめが発生すれば,いじめた人間が悪いのであって,いじめられる人間の側に, 何一つ積極的な行動力が生れることはない.萎縮して自殺に向かってしまうだけ?  どこか弱々しい社会である.                           然し,現代では,自殺する子供を弱いと決め付けること自体が,そんな弱い子供を 一層追いつめる結果になると言う.もっともらしい論理を振り回すことは得意だが, それでも結局,問題は解決しない.                        いじめられれば相手を責め立てる.いじめに対して,みじめに死んで行くだけ…. 逆境の体験のない子供自身に,自ら開ける道はない.そこに事前の何の教育も,道を 切り開く社会的土壌もない.                             近眼になると,視力回復の手段が,裸眼視力を衰えさせる効果抜群の眼鏡を掛ける 方法だけである.衰えた視力に眼鏡なしでの回復方法が医学的に確立されていない. レーザー治療を,矯正ではなく治療だと豪語する本もある.               眼鏡,コンタクトレンズ,レーザー治療のいずれも,その基本は人工的なピントの 調整でしかない.人体自らの力で回復させる本来の治療と言う視点に立てば,どれも その目的を達成させるものではない.                         眼鏡を使用して常に適正な視力を確保しようとすれば,眼鏡を掛け続けて定期的に 眼鏡の調整をして,どんどん度の強いレンズに変えて行くことである.強度の近視が 網膜剥離の原因になると言う危険が待っているのに….                 角膜に傷を付けたり,表面をレーザー光線で削るなどの方法で,眼鏡の代わりに, 網膜にピントを合わせてしまう方法が最新の医療として持て囃される.然し,眼鏡で どんどん度が衰える現象が,この治療法にも必ず訪れよう.               例えば,人工透析をしなければならない人間に,腎臓移植が行われるが,これとて 移植された腎臓が一生持つものではなく,早ければ一年以内に駄目になって,再び, 人工透析の世話になる患者も多いのだ.                        大体,一つで用が足りると言われる腎臓を,二つとも駄目にした人間には,単純に 腎臓を移植するだけでは解決されない.元々,腎臓自体を駄目にする原因が何処かに 隠されている筈だが,医学はそれを見ようとしない.                  人間自体が自らの能力に目覚める自覚を促す部分が何もない.単純に,近眼と言う 現象に見られるばかりではなく,共通する弱点が,すべての世界に普遍的に蔓延して 次第に日本は弱体化に向かう….                           話は次第に誇大妄想に進展して行くのだが,人間が、自らの一生を通して,絶えず 進化する存在であるとするならば,その必然として自らを自らの手で進化に至る道に 導く必要がある.                                  然し,現実は,肉体の成長と衰退に合わせて,精神自体も,比較的,若い時代から 老化へと向かっているのが現代の人間である.環境への適応は,人間の自然な能力の 一つでもあるが,文明がそれを阻害し始めた?                     文明とは,人間の外界が進化したものだが,その内面を進化させる効果に乏しい. 内面は,便利さに溺れて,自らの能力の向上から,どんどん遠ざかる仕組みである. 中年になって会社を放り出されると茫然自失である….                 頼っていた眼鏡を,突然外されてしまうと,何も見ることが出来ない目に退化して なす術もなくなる状況と何処か似ている.様々な環境への適応能力を心掛けておれば 中年になる頃には,『不惑』となるはずだが….                    近眼になった人間でも,その大多数の人間は,昔は正常に見えていた人間である. そして必ずや,本来の姿に戻る道が何処かに残されている.目覚める切っ掛けとして 視力回復に心掛けることも無意味ではない.    ** 悪魔 **        ・日本語の表紙へ…