改めてピント調整の意味を考える

改めてピント調整の意味を考える

 近眼という状態は,目のピントを合わせる機能がマヒして,休眠状態にあることを 指している.もし近眼に治療法があるとすれば,それは絶対的に,マヒした機能を, 復活させること以外には有り得ない.                       近眼とは,近くにピントが合ったまま,遠くに合わせられなくなった目である…. 例えば,近眼を説明する図には,網膜の手前でピントが合っている様子が示される. 例えば,それはこうである.→(>|                       然し,これは正確ではない筈だ.近眼の初期の段階では,ごく近くのものは,よく 見えていた筈である.つまり,ごく近くにピントが合っている状態であると言える. つまり,図は遠くを見たピントを表現している.                  遠くを見た場合,ピントが正常に戻るためには,水晶体の厚さをコントロールする 毛様体筋が縮んで,近くを見るために膨らんだ水晶体を薄くする必要がある.実際, これ以外に方法を求めることに不安を感じる.                   毛様体筋の働きには,ものを正確に認識する大いなる刺激に繋がっている可能性を 考えている俺様である.水晶体も毛様体筋も,近くを見ている状態に保たれたまま, その外側でピントを調整してしまう….これが眼鏡である.             目の機能的状態は,近くを見たまま固定されているのに遠くにピントを合わせる. 気付かぬところで,そこにどんな弊害が生まれているのか? 眼鏡を掛けた目では, 健全な同じ裸眼視力には及ばない何かがある….                  大切なのは,単純に遠くが見えることではなくて,毛様体筋と水晶体が遠くを見る 状態にあることなのである.単純な視力の回復が大切なのではなく,目全体の機能が 正常に戻るところにある.                            そこで,ピントの合わないものを見つめて,自然にピントが調整されるのを待つ. これが本来の視力回復のための刺激になることを期待する訳である.それでも,ただ ピントが合えばいい訳でもない….                        ピントが合わない理由について,単純に近くを見る習慣が多いという説明だけでは 何か不十分なものを感じる.常にピントが網膜に合い続ける状態に,或いは何らかの 不都合があるのかも知れぬ….                          眼鏡は,この部分を不明にしたまま,取り敢えず,網膜にピントを合わせることを 最優先させてしまう.これは回復ではない.肉体は,ピントを合わせるための作業を 完了していないからだ.                             眼鏡は,眠り込んだピント調整機能を蘇らせるために何の働きをする訳でもない. むしろ,ピント調整機能自体を,しっかり眠らせて,幅広い領域をカバーする眼鏡を 当てて一件落着である.                             裸眼視力と眼鏡による矯正視力の間にどんな違いがあるのか? 敢えて素人なりに 考えてみると,近くに固定されたピントをそのままにして,眼鏡を使用して強制的に 遠くが見えるように矯正してしまう.                       水晶体が膨らんだままの状態で,無理矢理遠くを見させられる現象が起きている. その根本的な問題を解決しようとせず,遠くが見えるようにしてしまう.新たな謎が ここに生じる….遠くが見える眼鏡で読書が出来る….               よく考えてみて欲しい.ピント調整機能が眠ってしまったのだから,眼鏡を掛けて 遠くが見えるようになれば,その眼鏡では,近くは見えない筈である.然し,眼鏡を 掛けて本を読む行為は日常的な現象である.                    それでも,何の苦もなく本が読めてしまうということは,眼鏡を掛けることにより 近くから遠くまで,実に幅広い視野をカバーすることが出来る状態が産み出される. ピント調整なしに,物が見える状態である.                    つまり,ピント調整機能なしで近くから遠くまでが見えてしまう.健康な目では, とても考えられない状態である.正常な視力とは,まるで違う極めて不自然な形態で 見させられる.                                 俺様が昔使った-3.0のレンズとは,裸眼視力0.3-0.04の範囲をカバーする.ただ, 平均的には0.1の視力で,この眼鏡を使用する.この眼鏡で0.7の視力も発揮出来ない 状態になってしまったのだ.                           遠くを見るために必要な筈の眼鏡で,例えば,読書をする習慣を持ってしまえば, 目は,眼鏡を掛けた状態で快適な視力を確保し,遠くを見る視力を落としてしまう. 眼鏡を着用しての読書に無理があるのかも知れぬ.                 基本的に,ものを見るとは,肉体の力で,そこにピントを合わせる機能が働いて, 初めて見えているものを認識することが出来る.ピント調整の利かない目に,眼鏡を 掛けた状態では,反射的な認識に弱さが生じる?                  こんな道具を使ってしまえば,本来持っているピント調整機能を,益々マヒさせる 働きしか生まれない.近眼の治療を考えるなら,本来持っている機能を,回復させる 方向性を持たせる必要がある筈だ.                        ピント調整が利かない筈の目で,尚且つ視力低下が起きて,更に,度の強い眼鏡の 着用でピントが合うようになるのは,眼鏡を掛けた状態でピント調整機能が働いて, 更に,焦点距離を移動させたと考えられる.                    遠くから近くまで,ピント調整の必要なしにものが見える状態は,本来,目が持つ 機能とは,全く違った状態に置かれると想像される.固定焦点カメラのようなものと 言えるかも知れぬ….全体の認識が甘くなる?                   目の機能自体が発揮する焦点調整が働かないと,本当の意味でものを認識する力に 足らざるものが出て来る可能性を危惧する.意識的に捉えたものしか見えなくなる. 見ても意識の関心がなければ認識されない….                   良く見える眼鏡で物を見ても,意識が捉えた対象だけが浮き彫りにされるだけで, 他が見えなくなる.もしピント調整が働けば,意識が捉えなくとも,目の調整機能が それを捉えて,関心を呼び起こす可能性がある.                  裸眼視力を,どんどん低下させて,眼鏡を掛けていい視力を得ても,実質的には, 見えている筈の,実に多くの情報を見落としたまま生き続けることになる.大袈裟に 考えれば,近眼が人生を過たせる可能性もある….                 俗に『近視眼的』という言葉がある.目先のものしか見えない状態を指すようだ. つまり,矯正されない目でものを見ている状態だろうが,この言葉の持つ響きには, 眼鏡を掛けて物を見ている状態が似合うような気がする.              少なくとも,眼鏡を掛けていなければ,視力の弱い立場を認識出来る.本来の目は 近くしか見えないのに,眼鏡で正しく見ていると錯覚している状態こそ,この言葉に 込められた本来の意味なのではないかと思える.        ** 悪魔 **
 ・日本語の表紙へ…