大人への試練に近眼がある?

大人への試練に近眼がある?

 基本的に人体は,様々な病原菌の攻撃に晒されている.多くの場合,人体に備わる 抵抗力で,これを撃退する.更には,医学の進化で人体のエネルギーを消耗せずに? 早期に,これを撃退する抗生物質が登場した.                   然し,人体を攻撃する病原菌は,自らの使命をあくまでも全うせんが為に,新たな 適応能力を以て,人類の英知である抗生物質を無効にする耐性を備えるまでの進化を 遂げて対抗して来ている.                            人間の目に捉えることが出来ぬミクロの生物が,人間の知恵に対抗出来るだけの, 優れた英知を発揮しているのだ.現代医学は,病原菌に対して一方的に優位を保てる 保障がなくなっている.                             人体には,医学が到達していないレベルの英知が無数に隠されている.本来ならば 病気には,個々の肉体が,自らの力で病原菌と戦って勝てる英知を獲得する方向へと 向かう必要がある….                              どうかすると医学の進化が,人体を軟弱にして,新たな敵を倒す英知から遠ざけて 人工的な薬物なしには生きられない存在にしてしまったとも言える.果して人体は, 病原菌に対して,常に受け身でいるだけの存在でしかないのか?           攻撃して来る側は,常に自らの使命を全うせんと,最大限の知恵を発揮して来るが 受ける人体は,それに対して,全く無防備なままで,人体の外側で,一部の医学者が 見つけた手段でしか対抗出来ないのか?                      医学から見離された人間は,病原菌の前に,なす術もなく滅び去る運命を辿るしか 道はないのだろうか? どうも何か違うような気がする….人体に取りつく病原菌が 発揮する適応能力は,人体側にも存在する….                   一度も医者に掛からず,丈夫で長生きしている人間は沢山いる.下手に医者の手に 掛かる人間は,習慣的に医者と仲良しになってしまう傾向もある.日常の食糧を得る 感覚で,薬を飲み続ける人間の何と多いことか….                 医学は,病を治すと言う本来の目的とは別に,現代にあっては,完璧なビジネスに 変身して,莫大な利益を生み出す産業と化しているのだ.極言すれば,人体の備わる 抵抗力を奪い去って,医学が独占してしまった….                 病原菌に対抗したければ,金を出して,医者から薬を貰わねばならない時代へと, 大きく変身してしまった印象すらある.その薬がまた,敵である筈の病原菌に知恵を 付けて,人体は医学の力を得て尚,永久に危険に晒され続ける.           最初から薬や医者を宛にせずに過ごして来た人間と,危険に遭遇する度合いに何の 変わりもないことになる.人類は,自らの中に宿る英知に,今少し大きな信頼を置く 必要を感じる.                                 同じ現象を,俺様は近眼と眼鏡の関係にみるのである.俗に,仮性近視と呼ばれる 初期段階があるとされるが,そこで,根本的な回復への治療法が確立されているとも 思えない.医学レベルでは,その指導も行われていない.              取り敢えず,眼鏡を作ってしまう.それで視力が得られると,もはや眼鏡を外した 環境に戻れなくなる.何らかの理由で正常なピントがずれた訳で,その根本原因には まるで目を向けずに便宜的に眼鏡を使ってしまう.                 正常な視力に耐えられないからこそ近視になった訳で,その理由を考えもせずに, 再び正常な視力を与えてしまう….正常な視力に耐えられない状況に変わりはなく, 再び視力が低下するのは,理の必然である.                    人体に,何らかの歪みが生じれば,病となって警告を与えるシステムが存在する. 正常な視力が得られない状況は,明らかに何かの危険信号である筈である.例えば, 勉強が原因なら,それを止めさせなければいけない.                文明社会に生きる人間は,勉強して目が悪くなるのは当然であると考えてしまう. 眼鏡は,勉強に打ち込んだ証として評価される始末である.本当に眼鏡と言う道具に 依存していいものなのか?                            一度,眼鏡に慣れ親しんでしまえば,生涯,掛け続けなければならない宿命を担う 過酷な重荷が付いて回る.その大事な状況を前に,安易に眼鏡に依存してしまうとは あまりにも危険な選択ではないのか?                       人生の基本は,自分自身が何をどの様に見て行動するかにある.近視に見舞われる 時期が,人生の進路を決定する必要に迫られる時期に一致すると言うのも,象徴的な 実態である.ここで自分で見ることを学ぶ必要がある.               就学以来,お仕着せの情報に接して,それを単純に受け入れるだけで,学校生活を 送って来た人間が,初めて独自の視点で,積極的にものを見る必要に迫られる時期に 近視は発生する.                               『見えるもの』を受け入れれば良かった時代から,『積極的に見る』必要に迫られる 時期なのである.長年の『見える』ばかりの習慣から抜け出して,『見ようとする』 切り替えが必要な時期でもある.                         受動的であったものが,能動的な主体を持った存在へと変身しなければならない. 人間は,一人一人が違った存在であり,その役割も千差万別である.画一的な教育で 同じ進路を進む状況は異常でもある.                       俺様自身には無縁であったが,学生時代,医者になれば儲かるとする風潮があって 多くの人間が医者を目指した? 然し,その結果は,医師過剰の時代を迎える結果を 招いてしまった….                               受動的に『見える』子供の時代の習慣から抜け出して,積極的に『見ようとする』 大人としての視点に立つ試練が何処かで必要になる.近眼という現象には,子供から 大人への物の見方に切り替える働きが隠されている.                大人に必要な条件は,『見えないものを見る』能力である.眼鏡を外して考えよ. このぼやけた世界は一体何なのかと….机上の勉強だけでは,見えるようにならない 世界を,どう見えるようにするのか?                       見えないものを,自力で見えるようにする努力を,どれだけ果たして来たのか?  見えなくなれば眼鏡に依存して,更に見えなくなれば新たに眼鏡を新調する….この 堂々巡りをいつまで続けるのか?** 悪魔 **               
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