視力回復は何をもたらすか?

視力回復は何をもたらすか

 最近の眼科医療の現場では近眼を手術で治す方法も取られている.それは,単純に 手術でピント調整をするだけである.近視の原因を根本的に解明した結果ではない. ここに怖さがある.                               眼鏡でピント調整をしても,結局,それを掛け続けることで更に度が進んむ以上, 手術をして,例えピントがあっても,再び近視への道を歩む必然が待っているものと 考えるべきである.                               例えば,勉強や読書が近視の原因とされるが,それは,近くばかりを見る以外にも 外での積極的な活動に消極的な人間にしてしまう.親もバカなもので,子供が,机に 向かっていると用事も頼まぬ.                          ガキのいない俺様には,まるで見当も付かぬことだったが,近頃の学校は,生徒が 校内の掃除をしないのだそうである.ある学校は,親が交代で掃除に出向いたとか, 或いは,業者が行っているとか?                         積極的に体を動かさぬ子供にして,机の上に縛るだけであるとすれば,小学校から どんどん近視が増えるのも頷ける.俺様,ご幼少の頃は,休み時間になって,校庭に 飛び出すのが一番だっと自慢するヤツがいた.                   そういう勉強以外のことで,強さを発揮することは,もはや何の自慢にもならない 時代である.ともかく,僅かな時間でも,外に飛びだして走り回って,次の授業へと 移行するたくましさは今はない?                         昔,ヤクザには近眼がいない言われた.視力が良いために,他人の,ちょっとした 動作が気になって,『ガンつけやがったなぁっ!』と,凄む結果に繋がるのだと…. 視力のいい人間でなければ,ヤクザになれない?                  こうした側面から見ると,格闘技の世界で,攻撃的であるためには,視力の良さが 絶対の条件になる.近くの相手が見える視力があれば十分とする考えでは,本当に, 強さを発揮するには不十分とも言える.                      性格的な弱さが,視力的な弱さを促すとすれば,これは単純に視力だけの問題では なくなって来る.射撃は,しっかり遠くの標的を捉えた上で,拳銃の方向を,正しく 整える作業である.標的を捉える積極性がカギになる.               遠くを見ると言う訓練作業にも,捉えたものを撃ち落とし,掌中に収める攻撃的な 意識を伴わせる必要がある.裸眼でピントが合うよう訓練することが,目標に向かう 全身の力を結集させる意味もある.                        射撃は,基本的に標的・照星・照門の3点一致の瞬間に引金を引くことであるが, 腕を向上させるには,この3点一致だけに心掛けるのではなく,弱い視力を強化する 訓練も平行して行われる必要がある.                       これは,一般的な意味での射撃訓練のことである.射撃そのものを視力訓練にした 俺様の世界とは,似ているようで違う.射撃選手は眼鏡を掛けて平然と射撃を行う. これでは腕もある程度までしか上がらない….  これは積極性を要求されるあらゆるスポーツに共通して言えることである.然し, 現実には,競技に関係がないと,視力の弱さは余り問題にされない.視力が低下する 原因は複合的で,単純にピント調整だけでは解決されない.             例えば,性格的な消極性が近視を呼び込むと仮定するなら,視力訓練と平行して, 積極的な行動意欲を持つ人間に変わろうとする努力が相乗効果を産む可能性もある. 俺様の場合,最初,そんな意識はまるでなかった.                 ただ,結果的に視力が向上するにつれて,今までにない積極性や攻撃性が生まれて 自分で驚いた程度である.言ってみれば,気がついたら,変な人間になっていた?  『それは生まれつきだ…』とは,よく言われることだが….             よくよく考えねばならぬことは,例えば,近視になったことが,単純な人体機能の 誤作動なのだと信じて眼鏡を掛けることだ.必然的な原因が必ず存在するからこそ, 防御反応として視力が落ちたのだ.                        何が原因であるかは解らぬ.然し,正常な視力を発揮することに耐えられぬ理由が あってのことである.この英知を無視して,眼鏡で元の視力に戻したのでは,折角の 英知が働いた意味がなくなる.                          眼鏡は,言ってみれば,基本的に古い仕様のコンピュータに高速CPUを付けて, 最新のコンピュータと,全く同じ性能になったと錯覚するようなものである.例え, 機能してもデータを取りこぼしたり等の不具合が生じる?              つまり,CPUの周辺が,その速さに付いて来られないのである.人間の視力も, その体に合った機能しか発揮されない.例え,眼鏡で計測的な視力を上げようとも, 得られた視力は発揮していない.                         矯正視力を回復させただけで,正常な視力たと錯覚して,車をぶっ飛ばすなんぞは ほとんど自殺行為にも等しい.近眼の人間は,夜間の運転を苦手にする者が目立つ. 無意識にデータの取りこぼしを感ずるからである.                 矯正視力が一定でも,裸眼視力がどんどん衰えている状況があれば,反射神経は, 着実に鈍っていると考えるべきである.情報の基本的な処理能力は,眼鏡を使用して 落とされた裸眼視力のまま働いているに過ぎない.                 それ故に,同じものを見ていても,眼鏡で見る映像は,レンズを通している部分で 幻の映像に近い感覚で捉えて,危険の認識に一歩足りないところがある.基本的には 近視である俺様自身にも言えることである.                    人が居るとは思えなかった空間から,突然,亡霊のように人間が車の前に現れて, 亡霊以上にビックリさせられたりする.人が居ないと思うのは,自分の勝手な解釈で 外界の現象は,そんな自分の思惑とは無関係に展開される.             何もなかったのだから,右から人間が渡って来れば分かる筈なのだが…,それが, 何故か全く分からず,センターラインを越えたところで初めて見えたりする.然し, 愚かな歩行者も見えている危険に現実感が伴わない?                何も危険なことはない.そう思い込む人間の意識の何処かに隙がある.何もないと 信じればこそ,車も飛ばせるが,その正しさも,結局のところ五分五分でしかない. 目の見える人間が盲人のように轢かれたり轢いたりする.              俺様は,視力の回復訓練を初めてから,いつも自分の視力の弱さを自覚してきた. 裸眼視力で行動する中で,必然的にそういう自覚が芽生え始めた.眼鏡を掛けていた それまでの生活の中では特にそういう自覚も生まれなかった.            これで眼鏡を掛けるだけで,目の機能を完璧に取り戻せるのか? 世間には眼鏡の 存在に改めて疑問を持つ常識はない.掛け続ければ,確実に裸眼視力を落とす現実に 誰も疑問を持とうとしない.                           最近は,それでも一部で視力訓練が商売にもなっているようだが,それでも眼鏡を 掛け続ける常識に疑問をもつところまでは発展しない.逆に,眼科では,角膜に傷を 付けたり削ったりする手術で回復させようとさえする.               自分の力で視力を回復させたところで,その完璧に見える状態に体が耐えられぬ. 俺様は,そんな体験もしている…? それだけ近眼も奥の深い病である.眼科医が, その浅はかな知恵で考えた手術など百害あって一益なしである.           ここに至って,視力訓練の本当の目的は,自分自身の視力の低下が何故起きたか? その問いに自分自身が納得出来る答えをみいだすことでもある? どうせ眼科医は, そんな答えを出してくれない.                          病は自然が与えた人間への貴重な課題でもある.少しでも視力を回復させたことが どんな変化をもたらすか? 自分が別に課題を持っていれば,視力回復の結果,何が 変化するのか? それを観察することにも大いなる意義がある.** 悪魔 **   ・日本語の表紙へ…