近眼の目は危ないか?

近眼の目は危ないか?

 例えば,眼鏡を掛け続けることが当たり前だった生活の中で,突然,眼鏡を外して 行動することは,あるいは危険なこともあるかも知れない….特に,車の運転などは 先ず不可能だろう.                               多くの人間が,眼鏡を掛けて得られる視力と引換えに,裸眼での視力を必要以上に 悪くしてしまう.ただ,矯正視力で普通に見えれば,裸眼視力が問題にされることは あまりない.俺様が感じる怖さはここにある.                   眼鏡を掛けて得られる視力は,必ずしもよく見えているとは限らない.裸眼視力が 1.0の人間と,一緒に行動する時,彼が反射的に見てしまうものを,眼鏡を掛けた 俺様がなかなか認識できないことがよくあった.                  そういう人間の中で行動する時,眼鏡を掛けて見ている世界は,反射的な認識に, 欠けた面があるのではないか? 同じ1.0の視力でも裸眼視力と矯正視力とでは, 隠れた部分で能力に差があるのではないか?                    それは,微かな疑問として,眼鏡を掛けることが常識だった頃から,拭い去れない 不審感として定着していた.俺様自身が,特別そういう認識に弱いのか? あるいは 近眼は,見る反射能力が劣る側面があるのか?                   俺様は,視力回復の訓練をする過程の中で,常に,自分の視力は,普通よりも低い 現実を強く認識するようになった.眼鏡を外して行動する中で,自分の実際の視力は この程度のものなのだと改めて自覚した.                     眼鏡を掛けると,一見,よく見えているようだが,実際には,その全てを認識して 正確にとらえている訳ではない.眼鏡という道具で矯正した視力に,脳が本当に適応 出来ている訳ではない?                             実際,眼鏡を掛けることが常識だった時代に,危なく事故を起こしそうになって, どうしてあれが事前に見えなかったのか? そういう疑問がよくあった.似たような 状況の中で,多分,昔はあれに気づかなかったと思うことがある….         最近では,例えば,眼鏡を掛けずに,街灯もない田舎道を走っていたとき,突然, 道路の真ん中に,黒い壁があると感じた.通り慣れた道で,そこにそんなものがある 訳は絶対にないのだった.                            更に少し走ると,ライトが当たって,白い帯が路上にヒラヒラしている….何かの 紙が散らかっているのか? だが,黒い壁の正体は….俺様は,車を減速させた…. 学生服姿が数人,白の靴で道路を横一列に並んで歩いていた….           彼らは,ライトを点けた車が背後から来ることを知ってか知らずか,平然と歩いて 避けようともしなかったのだ….もし眼鏡を掛けた近視眼的な発想で,そんなものが あろう筈がないと突っ走っていたら….                      かくして近眼の俺様が眼鏡を外しての運転中,暗闇の中に黒い壁を発見した話など 恐らく誰も信じないだろう.近眼でありながら,ピント調整が可能になった目では? 自分の視力の弱さを自覚するとき,危険が増幅されて感じられる….         普通に見れば,何でもないものが,危ないものに感じられる.そこで減速をする. その瞬間に,突然の飛び出しがあったりする.自分の視力の弱さを自覚して,慎重に 運転する中で,そういう不思議な視力を発揮する….                運転では,基本的に不安や恐怖を感じたら,それが解消される行動を取ることが, 絶対に必要である.不安や恐怖感は,自然に備わった予知能力である.素直に,その 解消への行動を取ることが必要である.                      それ故に,眼鏡を外すことに不安を感じたなら,外すべきではない.視力の訓練に 変な勇気は禁物である.外で行動している時,一箇所を見ようと,視点を固定させて しまうことのないよう注意が必要である.                     例え,歩いているときでも,注意力を固定してしまうことは危険である.脇見で, 怪我をする歩行者は意外に多いのだ.ましてや,車では,即,人身事故に繋がって, 生涯の悔いに繋がる恐れもある.                         見えないながらに,全体を広く大雑把に把握して行動する習慣をつける….俺様は 眼鏡を外したての頃,とかく一点をジッと見ようとしてしまうクセがあった.近眼の 習性としてそういう傾向があるのか?                       特に運転中は,一つのことに囚われると,他のものが見えなくなる怖さがあって, 例え,眼鏡を掛けていても,意図的に注意することが多かった….視力の訓練では, 射撃を行う関係で,必然的に一点に集中するクセが付いたり?            現在では,様々な視力回復の本が出回っている.様々な訓練法が紹介されている. また,速読の訓練が,視力の向上に繋がる話もある.これを視力訓練にするならば, 屋外で見える景色を相手に行った方がいい….                   本に書かれた記号の端から端へと,連続的に視点を移動させる訓練等は,本の上下 左右ではなく,景色全体の上下左右と大きくやった方がよい.これは,目は基本的に 本を読むために作られていないからだ.                      普通の状態では,滅多に動かすことのない目の動きだが,それが悪くなった目に, 今までにないショックを与えて目覚めさせる効果はある.日常,見慣れているはずの 景色の中に思いも寄らぬ発見をする.                       それだけで,今まで見たこともないものを見る刺激になる.あらゆるものについて 細部に至るまで視線を走らせて,今まで気づかなかったものを発見することが,悪い 目に,注意力を呼び起こすきっかけになる.                    そういう習慣が,裸眼でものを探すときに,思いも寄らぬ直観を呼び起こすことが あって驚かされる.書評で知った本を探したときのこと,反射的に,あれだと感じた 裏返しに置かれた本を見つけた.                         手に取って引っ繰り返してみると,まさしくそれが目指す本だった.単なる偶然で 何の意味もないと思うのは勝手である.見慣れた光景の中から,何か,新しいものを 見つける努力は,直観に通じていると語る(騙る)だけである.           どんなにいい視力を持っていても,その視力で何一つ新しいものを見つけることが 出来ないとしたら,それだけ視力を落としていることと同じなのである.歩きながら 人はどれだけものを見ているのか?                        多くの人間は,考え事をしているかのように,全く,目は虚ろで,意識的には何も 見ていないことが多い.盲人が,『目の見える人間がどうして車に轢かれるのか?』 と言う.自分に迫る危険すら見ていないのだ.                   車を運転する人間ならば,一度や二度の飛びだしは体験しているだろう.それだけ 何も見ずに,行動している人間が多いのだ.幼児を連れて歩く母親も,手を繋がずに ずっと後ろを歩かせて,子供には目の届かぬ先を歩いている.            親の目の前で事故に遭遇する子供がいる.多分,その多くは,前ではなく,背後で と言うのが実態なのだろう.ぶつかる瞬間を親は見ていない.騒ぎが起きて,後ろを 振り返って,初めて気がつくのだ.                        俺様の目撃例では,両手に荷物を抱えた母親が,中央分離帯のある道路を急ぎ足で 信号の変わり目を渡ろうとした.後ろから,幼児が必死になって『オカーサンっ』と 叫びながら追っている.                             その時,歩道を走っていた自転車と,幼児が接触した….親は,それで振り向いて 渡るのを止めた….大したこともなかったのだが,バカ親は『どうしたんですか?』 と相手を責めたてる口調だった.                         もしもバカ親が道路を走って渡っていたら…,どうなっていたのか? ほとんど, 子供を殺しに掛かっているにも等しい行動である.幼児に,親がどんどん渡る信号の 変わり目に付いて来られると本気で考えているのか?               『ボールの後から子供が…』ではなく『飛び出した親の後から子供が』なんてことが 現実に起こり得る….目は付いているが,ほとんど節穴にも等しく,全くその機能を 活用することもない….                             単純に視力だけでは人間の注意力を図ることは出来ない.全く視力のない盲人でも その鋭敏な注意力で,安全に配慮する知恵が身につく.普通に見える両目があっても その目を閉ざして歩く人間もいる….                       ただ,閉ざしている自覚もないままに,よく見ているつもりで行動している様子が 不気味である.多くの人間が,時に夢遊病者のごとく行動するのだが,その事実には 気がついていない….                              途中にあるポストで手紙を投函しようとしても,家に帰るまで全く忘れてしまう. 歩いている途中に,何処に何があり,それらと現在の自分との関連を絶えず意識して 行動することはない.                              言ってみれば,自分を忘れて行動しているのが人間であるとも言える? 例えば, 目的地に行くまでには,実に多くのものを見聞している訳だが,その大半は記憶には 残らない….見慣れたものは無視される人体構造でもある?             常に,自分自身の安全と周囲の関連に注目して行動するだけで,数多くの潜在的な 危険が満ち溢れていることに気がつく….平然と正面の目の高さに傘を突き出して, 前を見ずに傘を畳みながら歩く人間….                      ずり下げズボンで階段を昇り降りする若者だが,いずれ何人かは足を絡めた挙げ句 足を滑らせて大怪我したり,死んだりする.こういう若者の後に付いて,巻き添えを 食わぬ注意が必要だ.                              皆が皆,同じスタイルで行動している点で,学校で押しつけられる制服と,さして 変わりはしない….それが自分たちの自発的なスタイルなのだと信じているだけで, 本質は画一の世界なのである.自分と他の違いを見てはいない.           路上に,はみ出して信号待ちをする自転車の脇に居てはいけない.車が衝突すると 自分まで巻き添えを食ってしまう.中途半端に飛び込み自殺をした人間が,ホームに 飛ばされて巻き添えを食った人間もいる….                    ぼんやり,物を見るのではなく,絶えず自分との関連でものを考えながら,状況を 観察しながら見る目を養う….例え,眼鏡を掛けて,よく物が見える状況で歩いても 実際には,その視力を使っていないのだ.                     例えば,視力も年齢と共に衰えるとされるが,本当は,使われない機能が退化する 必然として起きているだけかも知れぬ.それだけ目は意識的に使われることがない. これは自然に近眼になる過程と似ている….                    眼鏡を外しても,周囲を観察しながら歩くことで,今まで見えなかった実に多くの ことに気がつくようになる.眼鏡を掛けていても見えなかった,様々なものが次第に 見えて来る.そういう体験が視力回復の刺激にもなる.** 悪魔 **     

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