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書き手:Aaina
January, 2003

2002年10月、私は自分の3年強に及ぶサラワク滞在の最後をしめくくるため、2ヶ月間の旅に出た。今回は、その中で出会った、あるプナンコミュニティについて書こうと思う。私の心にダイレクトに語りかけ、私の心を揺ぶったLLコミュニティ。「下界」と絶対的につながっていながら、絶対的にかけ離れている世界。

今回の訪問予定地は、LL村。ロング・バンガという、サラワクのバラム川沿い最奥地にあるairfieldから更に2時間遡ったところにあるプナン半定住コミュニティである(地図1参照)。1996年頃にロング・バンガにairfieldが出来ると、ミリから直行便で45分、とアクセスがぐっと良くなった。それでも飛行機(小型セスナ)は週2便しか飛ばない。1便に乗れる人数は19人。そして、その小型セスナはロング・バンガでお店を経営する人や休暇で帰る子供たちで、信じられないほど混んでいる。乗りはぐってしまった人は、陸路をたどる。8−10時間、ミリからランドクルーザーに揺られ、LLの隣村に着く。そこから更にまた徒歩で1時間。私たちは早くにセスナを予約していたので、行きも帰りもセスナ。でも逆に、その便利さによって、私は、ここがどれほどミリから遠いのか、感覚をつかみ損ねてしまった。

でも、LL村にたどり着くまで、大変だった。事前になされていたはずのアレンジがうまく行っておらず、私たちをロング・バンガのクリニックで待っているはずの人たちが「いない」。仕方ないから、今回お供をお願いしたジェッキー1と二人で歩き尋ね回った結果、夕方になったらLLに帰る、と言っている学校の先生(イバン人男性)をようやく発見した。というわけで、ジェッキーと、何もないロング・バンガで5時間、時間をつぶす羽目になった。じゃぁ、とりあえず、お昼でも食べようか、とお店を探すと、とにかく、「ない」。ロング・バンガには3つ、canteen(屋台)があると村の人が教えてくれたけど、そのうち食べ物を出せるところは1軒だけ。それも、ご飯はなく、今からインスタント麺をゆでてあげよう、だって。野菜も肉も何も入っていない、本当に「麺だけ」で、それなのに町で通常の具だくさんの麺を食べるより高い。でも、なぜか、ABCというマレーシア名物のかき氷は売っている。何で、ご飯用意しないでかき氷用意するかなー、と不思議に思う。でも、巨大な冷凍庫の中には(冷蔵庫はない)、ABC用の氷がビールと牛肉の塊と一緒に大量に入っている。その後、インスタント麺を食べ終わったが、ジェッキーと散歩をしようにも、ロング・バンガの端(airfield)から端(学校)を歩いても10分。そこから外れると回りはジャングル。しかも、私たちは二人とも土地感がない。しかたないから、教会の前に二人で座って、彼女にインタビューをして5時間をどうにか過ごした。

ようやく学校の先生が帰ってきて、いざ、出陣(午後5時)。彼の持つ小型ボートに乗り込んだはいいが、川が浅い上に、私たちは川を遡っていたので、何度もボートから下り、水浸しになってボートを押す羽目になった。途中、急流を上る頃には大雨。雷雨なんて言葉では表現しきれないくらい、大雨。足は膝まで水に浸かっているのに、頭の上からもずぶぬれ。ジェッキーと、泣きそうに寒い中ボートを懸命に押した。押さなければ自分たちが押し流される。連れて行ってくれたイバン人の若い先生は、私は全く使い物にならないと諦めたらしく、ジェッキーに指示をだし、厳しい顔で舵を取り、ボートを押す。私は何度も川の中で転びながら、それでも懸命にボートを押した。ジェッキーは全身寒さで鳥肌を立て、それでも力の限りボートを引っ張った。「あそこが最後の最難関門だ」と先生は更に顔を厳しくさせた。足手まといになる私に、ボートを下り、自力で向こうに見える大きな岩に渡って(本当に川の流れが速いのだ)、そこで自分とボートを待て、と指示を出した。ジェッキーは私を岩の方へ誘導すると、またボートの方へ戻り、転覆しそうになるボートを先生と岩の方へ引っ張った。私は足元が危うくて、ただただ岩へたどり着くので精一杯だった。そして、何とかその最難関門を突破すると、先生は教えてくれた。「あそこはね、墓地の前なんだよ。だからいつもあそこでボートが転覆する。あそこの川の流れだけ、魔が差す。きっと呼んでいるんだね。」ジェッキーと私は顔を見合わせ、かける言葉もなかった。

LL村に着くと、それまでの大雨が嘘のようにぱたっと止み、綺麗な夕焼けの跡が広がっていた。午後7時。ぬれねずみと化した私たちは、コミュニティにたどり着く前に、先生のお言葉に甘えて水浴びを済ませ、ご飯をご馳走になっていくことにした。LLの敷地内に位置する先生用の宿舎2は、電気、水道完備の、極楽宿舎である。テレビもあれば、シャワー、洋式トイレも備わっており、私たちはシャワーを浴び、先生の奥さん(プナン人)が用意してくれたお夕飯をご馳走になった。しかし、「さぁ、じゃ、コミュニティへ案内してもらおうか」という段になると、私たちはどっと疲れを感じた。するとその若い先生は、今晩は遅いし、コミュニティも遠いし、暗い中行っても危ないから、今夜はゆっくり泊まって行けば良いと言ってくれた。動けないほどに疲れ切っていた(そして私の体はあざだらけ…)私たちは、またまた先生のお言葉に甘えることにした。彼は、Pakan(Sarikei地区)出身、20代後半のイバン族男性で、数年前このLLの学校に赴任してきたという。ここでの教員活動は面白いが、いまだにプナン族を怖いと思うことがある、という。「特にね、伐採、ブロッケードという言葉は絶対口にしない方がいいよ。口にしたら最後、君たちは生きてここを出られないからね。」私とジェッキーはまたもや顔を見合わせる。まぁ、いいや、明日確かめてみよう。事前に、NGO関係者から学校の先生の中には政府に遣わされたスパイがいるからやたらに物をいわぬよう忠告を受けていた。

翌日お昼近くになって、ようやくコミュニティの方へ移動した。先生は、私たちが実はそのコミュニティに知り合いがいない(本当にいなかったのだ)ということを知ると、また心配し始め、ついてきてくれた。LL村の酋長(Ketua Kampung)にとりあえず挨拶を済ませるべきだ、という彼の助言に基づいて、酋長を訪ねた。酋長は、にこやかな顔ながらも、全く知らない私たちを見て、明らかに戸惑っている。私は、先生のいる手前、NGO関係者の名前を口にするわけにいかない。真の訪問目的を告げるわけにもいかない。うーん、どうしようか…と頭を抱えているところに、「Aaina!なにやってんの?こんなとこで」という声を聞いた。前にマッピングワークショップで出会ったらしい(私は覚えていなかった…失礼なことに)若者(スタンレー)がそこにいた。助かった、と思った。彼をつかまえて、私は彼に真の訪問目的を伝え、酋長にとりなしてくれるよう、頼んだ。プナン語の分からない先生をよそにスタンレーは酋長と話し合いをはじめ、私とジェッキーに、荷物を持って彼らの居住地に移動するよう言った。私たちは小躍りで荷物を持って移動した。スタンレーも酋長も、州政府が建てたロングハウス(7戸から成る)に住んでおり、スタンレーが今回私たちのホストとなってくれた。知人なんか泊めたことのない、若夫婦のスタンレーたちは、私たちが荷物を持って移動してくる間、家の大掃除を始めた。マットレスを干し、埃のすごい部屋を掃き、台所を綺麗にし、挙句の果てにはロングハウスに残っている人全員が、Ruaiの清掃を始めた。犬の糞、尿が散乱しているところを掃き、洗っている。その光景を目の当たりにしたら、なんか、申し訳なくなってしまった。そんな、特別扱いしなくたって良いのに…。彼らの住むロングハウスは、5−6年前に州政府によって建てられたが、天井は穴だらけ、壁は破れて隙間風が通る、という有様。プナン人自身もロングハウスに住む習慣がないため、ロングハウスに住むのを好まない人々が多い。

LL村は3つのロングハウスとおよそ200戸の小屋(写真1)から成り立つ、プナンコミュニティだ。水道はあるが、電気は一切ない。闇が訪れると、ジェネレーターのない彼らはロウソクやオイルランプを灯す。村の中にはロウソクすら買えない者たちがいる。その人たちは闇が訪れたら闇と共存する。明かりは一切ナシだ。闇の中で食事をし、語らいをし、床に着く。彼らは1950年代後半に今の土地に定住を決めた。それ以前はnomadicな生活をしていたが、現酋長であるBelare Jabu(80代)がこの地域に住むプナン族をまとめ、この土地を彼ら自身の定住地域として選定した。それ以来50年以上、Belare Jabuは住民の絶大なる尊敬と支持のもと、このLL村の酋長として君臨している。彼らは1990年代から伐採企業サムリンの行う伐採をたえず阻止してきた、非常に力強いコミュニティである。酋長のBelare Jabuと、この地域のpenghulu3を勤めたJames Laloの二人を軸として、素晴らしい結束力と実行力でこの地域一帯を全ての伐採活動から守り続けてきた。度重なる交渉、ブロッケード、ロビー活動、彼らのそれらの活動のおかげで、LLを流れる川は鏡の中を覗きこんでいるような透明度だ。彼らの地域は1997年の森林火災の影響を受け、その森の大部分が火に包まれ焼けてしまったが、伐採の手はまだ全く伸びていない。その証拠に、この村には、伐採道路をたどって到達することが出来ないのだ。ミリからランドクルーザーを使っても、隣村までしか来られない。LLに到達する伐採道がないからだ。そういえば、昨日送ってくれた学校の先生が道中、山々を指して言っていた。「この山々はね、LL村のプナン族によって完全に守られているんだよ。だから川はこんなに綺麗だし、魚も動物も、この地域にはまだたくさんいる。それもこれも、プナンがここ一帯を絶大な力でもって守っているからなんだ」。彼らがそんなに力強くいられるのは、どうしてだろう?多くのイバン民族が、政府の言う「開発」を受け入れ、コミュニティを分裂させ、先住慣習地を後に残して都市へ流入している一方で、LL村はどうしてこんなに力強く結束して森を守っていられるのだろう?

1週間の滞在期間中、私は酋長のBelare Jabuと元PenghuluのJames Laloを中心として、何人かと話をした(ジェッキーは行きの大雨と川上りで体力を消耗し、寝込んでしまった…)。酋長のBelare Jabuはマレー語がわからず、よってプナン語の通訳を介して話をしたが、たえずニコニコ、ニコニコ。彼自身がどんなシリアスな、厳しいことを言っていても、声を荒げずニコニコ、ニコニコ。1993年、サムリンが伐採を始めようとした時、彼を筆頭としたLLコミュニティの人々は企業との話し合いを3年間にわたって行ったが、それでもサムリンが聞く耳をもたなかったため、1996年、平和的に静かに人道封鎖を設置した。それが功を奏し、それ以降近年までサムリンはLL地域における伐採活動を控えてきた。しかし今年に入ってLLの隣村でサムリンは新たに操業を始め、2002年11月現在、LL村はサムリンの行動に細心の注意を払っている、という緊張状況にあった。サムリンが現在操業しているのは、LL村の領域内にある山の反対側、つまり隣村のサバン族の領域であるが、一歩峰を越えればLL村の領域だ。いつ、サムリンがまた自分たちの領域に入ってくるか、どの方向から入ってくるか、警戒心を強めている、とインタビューの間に酋長は教えてくれた。「伐採企業が再度あなたたちの森に入ってきたらどう対処しますか?」「企業の人に会いに行って、私たちの森から出て行ってくれるように頼みます」「でも、いままでそうやって話し合いを続けてきたわけでしょう?それでも企業の人はたえずあなたたちの森にやってきて、伐採をしようと試みてきた。ということは、話し合いは効果的ではない、彼らの伐採活動を阻むことができないということになるのではないですか?」「でも、今回入ってきた企業は前回からは変わっていて、彼らが切ろうとしている森が私たちプナンの森であることを知らないかもしれない。もし前回と同じ企業であっても、前回私たちがその企業に警告していたことを、彼らは忘れてしまっているかもしれない。だからもう一度話をしに行くのです」「あなたたちは人が良すぎる。すごく親切な心をもっている。それは素晴らしいことだけど、でも、企業はあなたたちを騙そうとしているかもしれないし、あなたたちほどいい人じゃないかもしれないでしょう?」でも、酋長はニコニコしている…。私は、あまりに感情的になりすぎて、涙が出そうになった。でも、インタビューの最後に、酋長は通訳を通して「今、再度サムリンが私たちの森に入ってきたら、サムリンに会いに行くこと以外に私たちに何が出来るだろう。君の意見を聞かせてほしい」と言ってきた。「あなたたちは、この森と土地を利用する権利を有している。それは憲法で定められており、土地法でも定められている。プナンは他の先住民族と土地利用の仕方が違うから、ちょっとその立証が難しいかもしれないけど、私は、あなた方が権利を有していると絶対的に信じている。でも、企業は、あなた方が正面からそんなことを行っても取り合わないだろうから、法をもってそれを証明しないといけない。だから、あなたたちのケースを裁判に持っていくというのが手段として考えられる」と私はゆっくり、丁寧に説明した。「ありがとう」といって酋長はその後側近と私の提案したことに関して話し合いを始めた。

James LaloはPenghuluとして10年間、プナンのために働いてきた。その間、ことあるごとに政治家、官僚へロビーイングし、プナンの苦境を訴え続けてきた。でも、どの政治家も、官僚も、真剣にJamesの嘆願を聞き入れてくれなかった。最後の手段として、Jamesは1998年、タイブ州主席大臣(Chief Minister in Sarawak)へ直訴に行った。その結果、あまりにアクティブなJamesに危機感を抱いたタイブは、JamesをPenghuluの地位から解雇した。解雇されても尚、Jamesはプナンの苦境を改善すべく、今でもあちこちを奔走している(アップデート48号参照)。私がインタビューに伺うと、それまで病床でふけっていた彼は、痛みをこらえて(事故で車から落下し骨を痛めていた)インタビューに応じてくれた。彼もまた非常に平和的な人で、始終笑みを絶やさない。でも、静かな落ち着いた声で、プナン民族の土地権が政府に認められていない現状を憂いた。他民族(イバン)の土地権は認められて4、彼らの生活は向上しているのに、自分たちプナン民族だけ抑圧され、開発からおいていかれている。プナン民族のことを国内で知っている人がこんなにも少ないのは悲しい。プナンだってサラワクの先住民族なのだから、他の民族と平等に扱ってもらいたい、と繰り返し主張した。プナンの土地権が認められるまで、自分は平和的に闘い続ける、と話す彼は、穏やかな瞳の奥に、真摯な強い炎を灯していた。Jamesは自分の民族に「土の上に根をはった樹」であって欲しいという。間違っても「ボール」にはなってはいけない、と。「土の上に根をはった樹」である人々は、自分たちの土地こそが自分たちの財産であることを理解し、何があっても土地を手放さない。ところが、「ボール」である人々はいつもぐらぐら揺れていて、そのボールをける人によって右へ行ったり左へ行ったりする。他人にいいようにあしらわれてしまう。自民族、プナンにはそんなふうになって欲しくない。いつでも確固たる自分を持ち、土地と森を守っていて欲しい。彼の自民族への想いは熱く、確固たるものとして人々へ語り継がれている。2日間に渡る彼へのインタビューの終わりに、Jamesは私にこういった。「私は、プナンが土地権を得る最終手段は裁判に持ち込むことだと思っている。でも、サラワクでは政府は時に企業と癒着し、公平な裁判結果を人々にもたらさない。そうなったら、自分たちはケースを連邦政府に持っていき、連邦政府に介入してくれるように頼んでみるつもりだ。だけど、もしかしたらそれも機能しないかもしれない。そうしたら、君たち外国人に助けを頼みたいんだ。君たちは国際世論を作れる。その国際世論でマレーシア政府がいかに不公平に社会的弱者を弾圧しているか、大声で叫んで我々の裁判結果に公平さをもたらしてほしい。私たちはこの土地に誰よりも長く住んできた。そのことを実証することだって出来る。だから、そのことを日本の人やその他のプナンに興味を持ってくれている人々に、君の口から伝えてほしいんだ。この村は町からとても遠いからね。なかなか外の人にコンタクトをするのが難しい。町に下りていくには膨大なお金がかかるし、町からも私たちを訪ねてくる人もほとんどいない。でも、君は日本人で、そして今我々と下界を繋ぐ役割を担える位置にいる。我々プナンは自分たちの果たすべき役割を果たす。この地で森を守り、伐採企業の人が入ってきたら彼らに警告を出す。州政府にだって直訴に行く。だから外国人であるあなたたちは、あなたたちに出来る役割を果たしてほしい」。Penghuluを解雇されたんだ、と言ったときの寂しそうな彼の顔、プナンの状況改善に全力を注げると言い切った時の真剣なまなざし、始終絶やさなかった彼の微笑。私が日本人だと知ると直接物資や金銭の支援を頼んできがちのイバン人たちと違って、「自分は自分のやるべきことをやるから、君は君に出来る方法で」という、あまりに謙虚で、それでいて真摯な嘆願に、熱いものが私の胸にこみあげてきた。

最後の晩、スタンレーは晩餐会を催してくれた。彼はその日一日森に入り、川へ行き、イロイロなものを集めて帰ってきて、奥さんと義母さんと3人で料理をして、20人近くを招待し、私たちに彼らと夕食をいっしょにする機会を作ってくれた。「Paku(山菜の一種)は食べられる?Chempuda(ジャックフルーツ科の果物の一種)の青いのは食べられる?」と心配顔で何度も私たちに尋ね、おいしい、心のこもった料理を出してくれた。あんなに心のこもった、優しい料理を食べたことなんて、この26年の人生の中で一度もなかった。集まってきた20人近くの人々は静かに、でも温かな雰囲気の中でそれらのご馳走を分け、その夕食が終わると、酋長のBelare Jabuはおもむろに立ち上がり、話を始めた。「こんなに遠い私たちの村まで来てくれて、本当にありがとう。君たち、日本人とイバン人という異なる国民、民族が本当に自分たちを探しにここへ来てくれた、という事実が、いまだに信じられない。君たちが来てくれたことが大きな励みになった。今まで、自分たちの森を守るために懸命の努力をしてきたが、その一方で心細い思いもしてきた。ここは外からあまりに遠すぎて、外部からのSolidarity Supportがなかなか届かない。だから我々は孤軍奮闘だと感じることが多いんだ。でも、今日君たちが来てくれて、また頑張っていこうと思えた。日本の皆さんに伝えてもらいたい。自分たちが(大きなニュースが日本に伝えられていないとしても)今日もこうして暮らしていること、森が自分たちにとって大事であること、プナン人はまだまだ森を守るために闘っているということを」。その演説にじっと静かに耳を傾けている人々。ランプとロウソクに照らされた酋長の穏やかでいて威厳のある風格。おなかがいっぱいになってスヤスヤ床の上で眠る子供たち。それをあやす母親とおばあちゃん。

国際協力は連携プレーである。全てのPlayerがそれぞれに課された責務を果たした時、何か大きなことを達成する一歩となる。より良い世界に近づく。「支援疲れ」は我々の側にも、サラワクのNGO側にもある。でも、村を訪れると、そこにはいくつものストーリーがあり、顔がある。自分の中にいくつ、その顔が住んでいるか、それがこの仕事をしていくエネルギーを作り出す。

1 ジェッキーとは、2001年10月に日本へ来日した、ウルニア事件のあったBusang村出身のジェッキーである。
2 LL村には1957年に開校した国立小学校があり、そこで働く先生たちは様々な民族の、政府から指名、派遣されてきた人々である。
3 Penanの慣習法がどうなっているか定かではないが、IbanではTuai Rumahが村長、その上にPenghulu→Pemanca→Temonggongの順で地域の長としての役職が上がる。全ての役職は州政府によって任命される。Penghulu、Pemanca、Temonggongはその土地を州政府が統治しやすいように設置された役職で、州政府とコミュニティの間に位置する。それぞれ異なるコミュニティ同士で不和のあった場合、彼らが、その地域における絶対的な量の歴史的・文化的知識に基づいて制裁役となることもある。
4 Rh Nor(イバン民族コミュニティ)が2001年クチンHigh Courtにおいてボルネオパルププロジェクト(半官半民の早生樹種プランテーションプロジェクト)を相手に、彼らの先住慣習地の一部である”Pemakai Menoa”の優先的利用権を認められたケースを示唆している。このケースにより、司法の場においてイバンの先住慣習権が承認、保障されたが、プナンは土地利用がイバンと違う。プナンは従来定住せず、稲作、果樹植樹を行わなかったため、土地法に定められている手法によって先住慣習権を立証することが難しい。プナンは移動生活をし、自然資源をその許容範囲以内で使用してきたため、自分たちが長年使用してきた土地を、物証を提示して立証するのが困難な現状にある。

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