
初めに(峠)
本会報でも伝えられている、サラワクで進行中のバクンダム計画による住民移住は何千人もの人を故郷から引き離した。
その中には、私が過去何度か訪れているロングガン(Long Geng)村も含まれている。昨年、数年ぶりにロングガンの人々に会った。しかし、そこはロングガンではなかった。村人は既に1998年11月に故郷を離れていたのだ。政府が用意した定住地に行く者もいれば、移住を拒否し、自分たちだけで新たな村を作ったグループもいる。それは昨年の本会報でも伝えられている通りだ。私がロングガンの人々に出会ったのは後者の新しい村でのことである。
ムサ・アガンにも9年ぶりに会った。
90年、ロングガンに滞在していた私は、よく村の若者たちといろいろな川に出かけては魚をとり、その場で焼いて、持参してきたお握りと共に食べた。ムサはそのなかにいた。
9年ぶりに出会ったムサは、定住地でも新しい村でもなく、仕事のため、マレーシア半島に住んでいるという。彼は時々休暇を取って帰ってくるそうだ。何のために?
「僕はある日テレビで、村の人たちがダムのために故郷をあとにするという悲しい知らせを知った。いても立ってもいられず、自分の故郷がどう終わり、村人がどのように生活を変えていくのかをこの目で見届けたかったんだ」
彼は、村人に積極的に会っては話を聞き、コンパクトカメラで写真を撮っていた。聞けば、故郷がなくなる様を1冊の冊子にまとめたという。私は帰国後、それを送ってもらった。そこには、私たちNGOやメディアなど外国人では決して書けぬ、心から溢れる涙があった。故郷を失うとはどういうことなのか、仲間はこの先どこへ行くのか。是非、SCC会員の皆さんにも、その一端を知ってもらいたく、ムサの冊子の日本語訳をここに掲載する次第です。
ただ、それを読むにはまず、ロングガンの背景をある程度知っておく必要がある。まずは私が90年に滞在していた前後の村の様子をお伝えしてからムサの文につなげたいと思う。しばらく我慢してお付き合い願いたい。
サラワクで最強の村、ロングガン(峠)
バクンダム計画は、80年代末に一度中止になった。現在のは、それが再浮上したものである。
そして、計画を一時でも中止させたのがロングガン村であった。ロングガンの村長を初めとした10人の長老たちが近くの村々を回り、ダムへの反対署名を集め、ダム反対キャンペーンを繰り広げた。このことは、「サラワクの先住民」(法政大学出版局)の252ページにも記載されている(ただし、実際の発音とその地名、人名が多少違っている。例えば、ロングガンもロングゲンと紹介されている)。
その中で村長の言葉が紹介されている─「土地は生命の源である」「われわれは土地を破壊して欲しくない。金は自分たちにとってはまったく意味がない」
果たして、長老たちの活躍の結果、バクンダム計画は撤回されるのである。
しかし、私が村に滞在していた90年、事情は変わっていた。村民はダムではなく伐採と闘っていた。しかも、村周辺でのその伐採を許可したのは、ダムに反対した長老たちだった。一カ月300リンギ(約1万5,000円)という少額の賄賂のためにだった。
町の工場労働者の月給の六割といったところか。私は村人に問うてみた。
「ダム建設にあれほど抵抗した長老たちが、なぜ今、木材会社に味方するのですか?」
「簡単さ。あの時は賄賂がなかった。今はある。それだけだ。俺たちはもはやこんな長老連中はいらん」
そして、その言葉通り、ロングガン村は私の滞在中に、長老を無視した住民集会を開催し、世襲ではない、民主的選挙による方法で長老を選んだのだ。今でも、このときの集会を思い返すと鳥肌が立つほどに、誰もが真剣な言葉を交した熱い日々だった。
サラワクでは、新選出した村長や長老は、その名簿を政府の出先機関に届け出なければならない。だが、現役の長老がいながら、自分たちの長老を選んだものだから、これは政府からは当然認められなかった。しかし、それは村人には関係なかった。
「政府が認めようと認めまいと、どうでもいい。俺たちで選んだ。それだけで充分だ」
この住民集会や選挙を総指揮したのがガラ=ジャロンである。豪放快活な男で、伐採と闘い逮捕されること実に4回。それでもいつもガハハと笑い、村人とともに歩いている。彼の指揮のもと、徹底した道路封鎖や、ここではちょっと書けない方法で、ロングガンはとうとう伐採を中止させた。おそらく、サラワクの中でも伐採を中止まで追い込んだ村は他にないかもしれない。ガラは他の村にも出掛け闘いをアジリ、ヨーロッパのNGOにも招かれ3ヶ月ほど遊説をするほどに行動力に溢れていた。
ところで、ロングガンはサラワク最長の川ラジャン川の最上流部に位置する人口約1000人の村だった。驚いたのは、これだけ奥地でありながら、若者が多かったことだ。他の村では60年代に教育制度が浸透し始めてから若者がどんどん町に行ったきりの状態が続いているが、ここは奥地でありながら例外だった。例えば、サッカーチームも7つ、つまり、サッカーだけでも約80人の若者がいることを意味し、それと同数の少女たちもいる。
ただ、たまのサッカーを除けば、村は至極退屈だった。夜、することがない。いや、正確には、ローソク一本だけを傍らに置き、村の前を流れるクルアン川に映る月や星を眺めながら雑談を交す。静かでたおやかな時間が流れていく。虫の声が心地よい。
昨年、ガラに会ったのは、ガラ自身が移住を拒否して作った村、タコラン地区のロングラウンである。ただ、村の風景は一変した。村の前を通るのは、若者たちがボート競争したような川ではなく、一日に何台もの丸太満載のトラックがもうもうたる砂煙を上げて走りすぎていく伐採用道路だ。
「こんなところに・・」
私は、ロングガンの自然の懐に抱かれるような雰囲気を懐かしんだ。
部外者の私ですらそうなのだから、彼ら一人一人は当然である。村人の誰かが、これまでのことを記録にまとめていないものか。そう思っていたときに、私はムサに出会ったのである。
序章(ムサ)
99年3月17日から22日の間、休暇を取ってロング・ガンへ帰ったとき(それはロング・ガン村の住人が98年11月25日から12月5日にコヤン《政府が用意した定住地》へ移住を終えたあとでした)、私は、なんとしてもこの記事を書き上げようと心が動きました。私のこの心の悲しみを、長い間忘れ去られてきた私の村について書くという方法を通じて、伝えたいと思ったのです。(中略)
この記事は、完全に満足行くものではありません。この記事に書かれた要因や情報が正確ではないこともあります。しかし、私はこの記事を書き上げることができた、そのことに満足しています。全体的に、専門技術用語や言葉などの使い方の点で至らないところがあるかも知れませんが、お許し下さい。この記事が、少しでも多くの人々が私たち民族の過去の歴史を忘れないでいてくれることに貢献できれば光栄です。
敬具
ロング・ガン村が沈む!
夜8時。私は半島の自宅で3チャンネルを見ていた。私は自分たちの民族がコヤンへ移住したというニュースが流れているのを見、自分の村が映っているのに気がつきショックを受けた。それ以来、私は休みを取ってロング・ガンへ帰る計画を立てた。
99年3月17日、昼の1時、私はリナウ橋に着いた。私はもう一度リナウ川(クルアン川の本流)を見られたことが嬉しかった。というのも、思い返してみればリナウ川には、およそ15年前に、同世代の友達と一緒に長い乾期の時に、魚を銃で採ったというような、日常の出来事が詰まっている。河口へ行くボートへ乗ったとき、私は、昔と何も変わらないように見える、川の両側に広がる景色を見て非常に心がかき乱された。その日、リナウ川は少々水かさが多いように見え、内陸地での伐採活動によって汚されたことを知っているかのように、水も濁っていた。
15分河口へ向かってボートでおりていくと突然私たちは、クルアン川の河口に着いた。その景色を見た途端、また心がかき乱された。そこにある小さな島々や美しい幻想的な石を見ると、私の体全体が、そこで刻み込まれたいくつもの甘い思い出を思い出した。
ボートはそのままクルアン川の上流へと猛スピードで近づいていった。川は当時と変わらない様子で流れていた。川を渡っている間、畑の痕跡や川の土手の左右にそれは誇らしく育っている果物の木、LaranやAsing、ApokやLimaの木を見る度に、どんどん悲しくなっていった。
昔のクルアン川も、内陸地や河口を行ったり来たりするボートが頻繁に通る忙しい川だった。しかし、今は当時の状態とは遠くかけ離れていた。ボートに聞こえてくる音もこんなに多くなかった。時々クルアン川の上を飛ぶ鳥のさえずりの音が聞こえてくるだけだった。その時ゆっくりと吹いていた風は川岸の葉をまるで「おかえり!そしておかえりなさい!」と私に言ってくれているかのように揺らした。
墓地の反対側へ着いたときには、墓地の底面は、低木が育ってしまったのでもう見えなかった。旅の目的地は段々近づいてきて、私はもう、みんなのいない自分の村の状態を見るのに耐えられなくなっていた。
(つづく)