
前回まで、児童労働と農薬問題という、マレーシア半島部での問題を報告してきた。一世紀近い歴史をもつ半島部に比べ、70年代からプランテーション開発が本格化したサラワクでは、幸いにというか、二つの問題はそれほど深刻ではない。だが、半島部の問題は、将来のサラワクを暗示していることを留意していただきたい。
とはいえ、サラワクでも既に問題は起こっている。今回、80年代に起こった最大の事件について述べてみたい。
■■ ペート=シモンの闘い
押せば倒れそうな小柄な体。低い物腰に、人をまっすぐに見ながら絶やさない微笑み。
数百家族ものリーダーとして、プランテーション会社と徹底的に闘ってきた男と聞いていたので、目の前に現れた彼――ペート=シモン――の素顔は意外だった。
粗末な高床式住宅。部屋の壁には、聖母マリアのイラスト画や自分の結婚した時の写真が貼られている。
ペートは1952年、サラワク西部の街シブ近郊の村に生まれた。自由な生活だった。魚獲りに狩り。米や野菜は全て自給していた。
ペートが20歳の時の72年、SLDB(サラワク土地開発委員会)という、プランテーション事業を行なう公社が設立された。
SLDBの職員は、入植者確保のため、いろいろな村で演説をした。土地をもらって自立できること、高い現金収入が得られること。将来にバラ色を見たペートの兄がその年に、ペートも78年に入植をする。プランテーションのために、約2000家族が故郷を離れた。当時、サラワク最大のダム開発「バタンアイ・ダム」で村が沈んだため、入植した人々もいる。 確かに、当初、収入はよかった。油ヤシの買い上げ価格はトン当り52リンギ。このうち12リンギは年末ボーナスのために天引きされたが、月に40トンも収穫すればそれだけで1600リンギと、町の工場労働者の4倍は稼いだ。「ハッピーな時代でした」とペートは振り返る。結婚したのもこの頃だ。だが、国際市場でのパーム油価格の下落から、SLDBは経営難に陥り、82年からボーナスは支払わず、86年9月、突如、経営権をイギリス系企業に譲渡する。プランテーション経営に長けたその会社は、入植者に「今後、日雇い労働者として働くこと。トン当りの買い上げ価格は52リンギから15リンギに変更する。従えない人は、1週間以内にプランテーションから出るように」と通告した。あまりにも突然の発表だった。特にバタンアイ地区出身者は、今更帰れといわれても、帰れる故郷もなかった。
ペートはその日のうちに、プランテーションに住む入植者を何百人も集め、話し合いを起こす。ペートは、会社に異議を唱える636家族のリーダーに選出され、まず、会社との交渉を試みた。だが、話し合いらしい話し合いがもたれることはなかった。
ペートたちは、ボイコットと同時に、プランテーションを走る集荷トラックを道路封鎖する行動に出た。そして4日目、機動隊がやってくる。無数の催涙弾が、何百人もの入植者に向けて撃ち込まれた。たち込める煙の中、怒号が沸き起こり、涙を流しながらも、入植者たちは、撃たれた催涙弾を拾って機動隊に投げ返した。
会社も、抵抗運動を起こした入植者に対し弾圧を開始する。抵抗した家族への水道と送電が止められたのだ。
水がない。プランテーション内での唯一の水源は川だ。そこは、散布していた農薬で汚染されている。雨水以外は、生活用水はそこで賄うしかなかった。ペートたちに心を寄せる弁護士が、水を積んだタンクローリーをチャーターしたが、プランテーション入り口で会社側の搬入拒否を受け、水は届かなかった。
水や電気はその数年後に再び供給されるようになったが、ペートが今でも忘れられない仕打ちがある。92年、近所の赤ん坊が急熱を出し、車で病院までの搬送を会社に頼んだが断わられた。やっとのことで二人乗りさせてくれるバイクに頼んで病院に運んだところ、その数分後に赤ん坊は手遅れで亡くなった。
■■ 逮捕
賄賂を使っての、ペートへの懐柔策も行われたが、ペートは決して妥協しなかった。彼の主張するのはただ一つ。初めの約束を守ってほしいということだけだった。業を煮やした権力側は、最後の切り札を出す――「国内治安法」。逮捕状を必要とせずに逮捕ができる法律。最近、アンワル元副首相が逮捕されたのもこれである。87年10月末、裁判闘争を起こす準備をしていたペートが弁護士事務所を出たところで、いきなり警察の車に押し込められた。「逮捕の理由は何だ!」とのペートの問いに、説明は一切行なわれず、ペートは州都クチンの刑務所に護送された。尋問につぐ尋問が始まる。8人の係官が代わる代わるにやってきては全く同じ質問を繰り返した。「生まれは?」「五歳の頃、隣の家に住んでいたのは?」「小学校の担任の名前は?」
少しでも違った答だとそこを徹底的に追求されるので、ペートは強い意思を持って、記憶の底から確かな映像を呼び起こし、慎重に言葉を選んで尋問に臨んだ。
食事は申し分なかった。だが時には、エアコンが4台も稼動している氷のような部屋に置き去りにされたり、体をかぶれさせる木で作ったベッドをあてがわれるなどの嫌がらせを受けた。
28日後、ペートは釈放されるが、帰ったプランテーションで見たものは、636家族全てが解雇され、代わりに隣国インドネシア人労働者が働いていたことだった。
土地なし。それが、政府の言葉を信じて移住してきた人々の果ての姿だった。
■■ それでも光がある
636家族の多くは今も、判決までは社宅に住めるという裁判所の仮処分に従い、プランテーションに留まっている。日雇いの職すら奪われているが、入植時に与えられた私用地で穀物を育てたり、野菜や果実などを近くの市場で売ることでその生活を支えている。
ペート一家は、妻と子供、そして両親合わせて10人という大家族だ。生活は極めて厳しい。
そして、ペートは何者かによる嫌がらせを受け続けている。あわやひき逃げの目に遭うこと3回。飼い犬の毒殺5回。四六時中続く警察の監視。それだけならまだましかもしれない。サラワクの知人からこんな手紙が届いた。
「ペートの、バナナやパイナップルなどを育てていた私用地が、何者かに根こそぎにされた。畑の作業小屋も放火されて全焼した」
ペートは暫くは完全な無職となり、知人からの借金生活を余儀なくされた。
その数ヶ月後、サラワクに飛んだ私はペートと出会う。生活は? 監視は?
ペートは相変わらず微笑んでいた。3歳の娘を膝に抱きながら、穏やかに言った。
「大丈夫です。私のことは心配しないで下さい。私たちは必ず勝ちます。こんなことも今しばらくの我慢です」
さらに話を聞くうちに驚いたことがある。ペートは、出身地にまだ土地があるというのだ。
――なぜ帰らないのですか? そこでは、自由に農業も狩りもできる。誰にも束縛もされずに、生きていけるのに。
「私はこの闘いのリーダーなんです。636家族は日雇いの職すらも奪われて、それでもまだここで生きています。裁判の結果が出るまで、私一人がここを離れるわけにはいきません。私はここで仲間と一緒に生きていきます。神は常に正しい道を用意してくれています。この闘いも、神が私のために選んでくれた道なのです。私はこの人生に満足しています」
ペートは、636家族のため、あえて困難に身を置いたのだ。その選択に彼は幸福すら感じている。私は一切の理屈抜きで彼を尊敬する。言語を絶する厳しい状況の中でも、色褪せることなくきらめく「人間」。今後の人生で、彼ほど高潔な人物にまた巡り合えるだろうかと時々思う。
とまあ、感傷に浸るのは私の勝手だが、ペートはこう主張する。
「マレーシアから、これ以上の油ヤシを買わないでほしい。これ以上、プランテーションが作られることは、多くの人が騙され、多くの村が潰されることを意味するのです」
次回は、その潰されかかっている先住民の村のことを紹介したい。□